2011年の今日の日記
アテルイ処刑の地については、以前に少し考証したのだが、そのときに自分で書いたものは今ちょっと見つからない。
今日、改めて調べたところ、その後も研究には少し進展があるようだ。
特に「蝦夷の首長アテルイと枚方市―官民一体となった史蹟の捏造」という論文は、昨日アテルイ祭が行われた場所が、アテルイ処刑の地ではありえないこと、どうやってその説が捏造されたかの綿密な考証であるという。
アテルイ処刑地については、『日本紀略』写本に「植山」「椙山」「杜山」の3種の異字があるとされてきた。
が、神英男氏「蝦夷梟帥阿弖利為・母礼斬殺地に関する一考察」(『日野昭博士還暦記念論文集・歴史と伝承』)には、数種ある異字の原本は「椙山」であることが論証されているという。
だとすると、植山説に乗っかった宇山説→牧野公園説の流れは没。
もとより杜山説に基づく候補地は空想の域を出ないのだが、これも没。
椙山(すぎやま)説に基づく、枚方市杉の「オニ塚」(現在は王仁塚であるという捏造に基づき、大々的に史跡化)説だけが残る。
あびの説は、以前に考証した時点よりも、有力となった。
牧野公園の「アテルイ首塚保存」について、1993年第3回市議会会議録では、教育委員会社会教育部長は「歴史的根拠もないのにできません」と明言。
A議員は「歴史のロマンですから」としつこく食い下がるが、相手にしていない。
しかし、2005年には市議会で文化産業部長がアテルイの記念碑の設置について「伝承文化をいかしたまちづくりとして意義あるもの」と答弁。
中司市長のもと、市政や市の教育行政がおかしくなっていった過程とぴったりと一致する。
「史実よりもロマンを」という倒錯した考えは、深くナショナリズムとも結びついている。
それは郷土愛の形をとって忍び込んでくるので、しっかり注意していたい。
上記は地元でオニ塚と呼ばれてきたものが、江戸時代の儒学者により、根拠なしに王仁塚とされたもの。
あびは、ここがアテルイ処刑の地ではなかったかという仮説を持つ。