由良の門を渡る舟人かぢをたえ
ゆくへも知らぬ恋の道かな
散骨について長いメッセージをいただきました。なぜ私に私信してくれたのか。散骨を終えて戻ったとき印象的な蝶が現れたからかなど思いつつ、読み進めました。
すると最後にこの散骨は拙著『蝶を放つ』を読んで決心がついたものだという述懐がありました。あのような拙い小説が散骨のきっかけになり、よい見送りが出来たのなら、書いてよかったと思いました。
あの小説はあんまり売れなかったのですが、数少ない人からご自分や身近な人の生死に密着した、非常に濃い感想をいただくことができました。それは今でも続いています。
書いてよかったと思いました。
許可を得て転載しますが、文中、人名、地名は仮名に変更しています。
(以下引用)
母が若い頃、漁師に恋をして過ごした海に、骨を返して来ました。
防風林のような低木をかき分けて道に戻ってきたら、花もないのに、アゲハ蝶が現れて、しばらく私の近くの葉っぱに止まって、飛んで行きました。
ここは櫂流岬と書くのですが、地元の人や母は、かんる岬と呼んでいました。10万年以上も前の南海トラフ地震で、持ち上げられた高台だそうです。
向こうの岩の島とこちらの岬の間の潮の流れが速いので、櫂流岬というそうです。
小学2年の時、母は私をここに連れて来ました。結婚したかった鯨捕りを運転手にして。
私はその頃、スイミングスクールに週5日も通っていたので、母は「幸子、飛び込んでみい」と言いましたが、子どもが見ても、危険だとわかり、尻込みしました。
「あかんなあ」と言って、母は磯の岩からズボンと海に入りました。沈んだあと、浮上して、「さちこー」と呼びました。
私は母が死んだと思ったので、喜びましたが、その笑顔は、漁師のおじさんに向けられていることもわかっていました。
私はそのおじさんが好きだったし、そのおじさんは岡田真澄みたいなハンサムだったので、私はそのおじさんの子どもだったら、美人に生まれていたのに、と思っていました。
磯の岩に這い上がった母は艶めかしかったです。
「風邪ひくど」とおじさんは言いました。「若い頃、船で来て、ここでよー泳いだなあ」と母が言うと「若かったなあ」と懐かしそうでした。
散骨というほどの格好のいいものにはなりませんでしたが、母がドボンと入ったところが、添付写真の左の白く見えるところです。
骨はもう砕けていたので、海に返すと、一瞬白濁しました。衣を着た人に見えました。
そして、また一瞬で透明になり、海の底がところどころ白く見えました。そして、太陽と波にきらめいて、笑っているようでした。
私も、夫も、喜んでると思い、とても幸せな気持ちになりました。
私は母の遺影を選ぶ時、私を産む前の色っぽく、美しい写真にしました。一人の女性に返してあげたかったからです。
亡くなってからずっと骨を手放すことができないでいたのですが、『蝶を放つ』を読んで、決心がつきました。
この小説の登場人物の立場や心境と単純には比較できないのですが、このドボンと海に入った後、岸に上がってきた母のなまめかしさを、とても生々しく覚えていて、そこから登場人物のなまめかしさに通じるものを感じました。
(引用終わり)
これ自体がまるで短編小説のような濃い私信をありがとうございました。
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