以下は、2012年の僕の手紙です。
これには何の返事もなかったばかりか、これを送ってから、トランスパーソナル心理学系の京都の集まりは、二度と僕に集まりの情報をくれなくなったんやけど。
NTなんか、20代のときからの親友と思ってたんやけど。(;゜ロ゜)
(以下2012年の手紙)
Hさん、ジョアン・ハリファックス講演のレジュメ増補版の送付ありがとうございました。これでレジュメとしては省略のない完成版に見えます。
ところで中身と訳についてはいろいろ疑問点や問題点も感じます。
気になるところから、時間のあるときに書きます。
今日はまずひとつ。
Zen Master Dogen’s Mountain and Rivers sutra reminds us that nature is a system we are in relationship with.
道元禅師の「山川草木悉有仏性」は自然は私たちが関係するひとつのシステムであることを思い出させてくれる。
の部分です。
これは講演会のときのレジュメから既にこの訳になっていましたが、これに対してはぼくは強い批判を持ちます。
ジョアンが言及しているのは、道元の『正法眼蔵』第二十九の「山水経」だと思われますが、なぜそれをそのまま「道元禅師の「山水経」は私たちに思い出させる」と訳さずに「山川草木悉有仏性は」と訳しましたか?
「山川草木悉有仏性」という言葉は道元の言葉ではありません。
それどころか、日本仏教の歴史の中にこの言葉を発見することはできません。
1970年代以降に、いわゆる京都学派がナショナリズムの興隆のために「捏造」したものです。
「捏造」が引用を繰り返されることにより、日本仏教の特徴であるかのように人々が思いこまされるまでに、ナショナリズムの宣伝力は、強力なものです。
仏教を勉強したものなら騙されないはずですが、トランスパーソナル心理学の世界で、この言葉が捏造であることが周知されておらず、むしろ日本仏教の特徴としてもてはやされているのなら、憂慮するべき事態です。
Hさんがここにこの言葉を引用されたのは、どのような来歴がありますか? いつのまにか、これが道元の言葉であると思いこまされるような言説が、ご自身の周囲で盛んですか?
この言葉の来歴や思想的な意味、天皇制日本仏教の検討、現代における京都学派とナショナリズムの関わりということに深入りすると、議論はえんえんと続いてしまいますが、
いずれにしろ、翻訳という観点からは、ここはそのまま「道元禅師の「山水経」は」と訳すべきだと思います。
そうでないと、知らずに捏造に荷担してしまいます。