ネーネーズの「平和の琉歌」分析しました。
「平和の琉歌」は桑田佳祐が作ったこの部分がよく知られています。
平和の琉歌
一、この国が平和だとだれが決めたの 人の涙も渇かぬうちに
アメリカの傘の下夢も見ました民を見捨てた戦争の果てに
蒼いお月様が泣いております 忘れられないこともあります
愛を植えましょう この島へ 傷の癒えない人々へ 語り継がれていくために
二、この国が平和だと誰が決めたの 汚れ我が身の罪ほろぼしに
人として生きるのを何故にこばむの 隣り合わせの軍人さんよ
蒼いお月様が泣いております 未だ終わらぬ過去があります
愛を植えましょう この島へ 歌を忘れぬ人々へ いつか花咲くその日まで
(以上 桑田佳祐 作詞)
しかし、知名定男はそれに続けて次のように補作しました。
(以下 知名定男 作詞)
三、御月前たり 泣ちや呉みそな やがて笑ゆる節んあいびさ
情き知らさな くぬ島ぬ 歌やくぬ島ぬ暮らしさみ いちか咲かする愛ぬ花
読み方(うちちょーめーたり なちやくぃみそな やがてぃわらゆる しちんあいびさ
なさきしらさな くぬしまぬ うたやくぬしまぬくらしさみ いちかさかするあいぬはな)
桑田のつくった一番、二番については、三行目まで、詩として確かによくできていると思う。
「この国にはまだ平和は来ていない」とアジらないで(政治的アジテーションをしないで)、「だれが決めたの」というところとかうまい。
「民を見捨てた戦争(いくさ)の果てに」というところは、沖縄が捨石にされたことを認識して歌っているがこれもアジテーションにならないで詩になるよう言葉を選んでいる。
三行目で「蒼い月が泣いている」と転調しちゃうところが、これまた詩として優れている。
ただ四行目だけ、「まとめたな」とちょっと思わせる弱さがある。欠点はそこにある。
ここが桑田の凡庸さが顔を出し、あらゆる種類の歌を作るのは器用だが、本当はどっちでもいいんだということがよく見れば、ばれるところだと思う。
それに、よく考えると、やまとんちゅがここを歌うのは、おかしくないだろうか? だれがこの沖縄の島に愛を植えるというのだろうか?
君が代を歌い、天皇から紫綬褒章をもらった桑田佳祐が、琉球に愛を植えるのだろうか?
三番はネーネーズのために知名定男がつくった。これは桑田バージョンにはないものだ。
「 うちちょーめーたり なちやくぃみそな やがてぃわらゆる しちんあいびさ
なさきしらさな くぬしまぬ うたやくぬしまぬくらしさみ いちかさかするあいぬはな」
(原文を壊したくないけど、理解不能の人のため仕方なく、私の大和ことば訳)
「お月様よ もしもし 泣くのはやめてください やがて笑える季節がきっとありますよ
情けをしらせたいものだ この島の。 歌こそこの島の暮らしなのだ いつか咲かせよう 愛の花を」
最も大事なポイントは、「なさきしらさな くぬしまぬ」 というところが、桑田と逆転しているところだと思う。「この琉球の島の情けを知らせたいものだ」 誰に? やまとに、だと思う。
ここに来てネーネーズの「平和の琉歌」においては一番二番もすべて逆転すると僕は思う。
すべては、琉球から大和へのメッセージに変換されていると感じる。