ジョアン・ハリファクス来日講演 2012年6月2日
ジョアン・ハリファクスは、基調講演において、ターミナルケアする者(介護する側)の6つのエッジ・ステイツ(それ以上いくと、ケアする側が崩壊するぎりぎりの状態)について語った。
メモにより再現すると、
①病理的な利他主義
②バーンアウト
③苦しんでいる他者を見ることで生じる二次的なPTSD
④本当に大事なことが周囲のプレッシャーのためにできないという倫理的な苦しみ
⑤水平的な敵意(看護士などの職場のモラルハラスメントのことと見た)
⑥構造的な暴力
ぼくの抱いた感想は、これらはすべては、
中学教師が、周縁化されている生徒のケアをするときに直面する事態と一致するというものだ。
そしてこの話を聞いているとき、ぼくは自分が鬱になった理由をはじめて正確に多面的に言い当てられたと感じて涙が出てきた。
ぼくが鬱になったとき、ぼくは自分の内面にその原因を求める心理学というものの存在によって、その鬱をさらに悪化させられそうになった。
それで自分で必死に考えて、この鬱の原因が自分の中にあるのではなく、システムの中にあるという結論に達した。
そしてそう考えることではじめて、すなわち心理学・精神医学とは、主体的に訣別するという意志においてはじめて鬱から回復しはじめた。
そしてさらに職場のモラルハラスメントという問題がそこに絡んでいることを自覚し、それと徹底的に闘うことで、かなり回復したのである。
そのことを思い出したのだが、この6つのエッジステイツの認識ではそれは⑥と⑤に相当すると思う。
しかし、この6つのエッジステイツは、それを含むと同時にもっと多面的に総合的に教師の置かれている困難に寄り添うようにして言い当てていると思った。
そして、まず、言い当てられ自覚するだけでも、これらの困難は半ば解消すると思うのである。
また、こうも思った。
ターミナルケアとは死んでいくことの苦悩に寄り添う仕事だが、世界に適応できない自分に苦しむ中学生に寄り添うことは、生きていくことの苦悩に寄り添う仕事だ。
このふたつはちょうど表裏一体となっている。
そして実は生きて死んでいくことの苦悩という意味ではひとつなのだ。
そして両方とも現代の社会システムの問題に絡まり合っている。
生きることの困難に苦しむ中学生が、これからどうしたらいいのか。
たとえば軽度発達障害があって勉強もわからないし、人間関係もうまくいかないが、これからどう生きていけばいいのか。
幼い頃から、虐待を受けていて、誰も信じることができないし、破壊的なことをすることでしか関係性を確かめることができないのだが、これからどう生きていけばいいのか。
それは本人にわからないだけではなく、学校じゅうのどの先生にもわからない。
そう、そのときこそ、ケアする側が、6つのエッジステイツに直面するのだ。
だから、それにもまして感動したのは、話はここまで及ばなかったのだが、レジュメに書いてあった「ウパヤのチャプレンのひとりがセナケの言葉をつぎのように磨き上げた」という言葉の数々だ。
それはケアする者の心的姿勢の具体的な表明である。
なぜ、それにぼくは感動したのか。
それはぼくがいま、生徒に対して、ぎりぎりそう思っていることだからだ。
そして、ぼくが鬱からほぼ完全に回復したのは、生徒に対してそのように思うようになったからだ。
そのことをこれらの言葉で自覚した。
ぼくがどう思うようになったことで、鬱から回復したのかを言語化してあるものに出会ったということである。
ぼくはすでにこのように思っている。そして、このように思うことによって、やっと鬱から解放されたのだとわかった。
たとえば・・・
「あなたをまたひとつのステレオタイプや統計の例に貶めることで、あなたを見捨てたりはしない」
「私は、あなたを見えないか、目に見えなくするか、あなたが現れた現実を否定することによって、あなたを見捨てたりはしない」
「現在、たとえ私があなたがそうである場所にあなたと座ることができないとしても、あなたを見捨てたりしない」
「私はあなたを見捨てたりしない。しかし、時には自分自身を癒し新たにするために、引きこもることもする。そうすれば自分の心の奥深くから奉仕することができる」
「あなたを見捨てたりしない。なぜなら自分を見捨てたりもしないから。私たちはともにありのままの人間で、今この瞬間に必要であるものにしっかりと心を開く」
これは6つのエッジステイツのそれぞれについてバランスよく認識の光を向け、そこからの解放の道を、智慧と慈悲の一体になったものとして導き出したものだと思った。
つまり、それは「いかなるときも、あなたを見捨てない」という利他主義においてだけではなく、たとえば「私が今あなたがそうである場所にあなたと座れないとしても」ということによって、過剰な利他主義という病理から解放されている。
また「しかし、時には自分自身を癒し新たにするために、引きこもることもある」とすることで、バーンアウトからも解放されている。
そのようにして適切なバランスを実現し、「私たちはともにありのままの人間で、今この瞬間に必要であるものにしっかりと心を開く」 という絶妙のダンスを踊るのだ。
そしてあびは思うのだが、これは仏教とは何の関係もない。 ただ人が人として全面的に生きようとするとき、いつかはここに達する。 達するしかない。なぜなら、ここに達しもせず、現実から目をそむけることもしないなら、それは甚だしい苦しみに至るしかないからだ。
だから、心開いて生きる人は、いつかここに帰着するしかないのだ。
そしてそれでもなお、バーンアウトの可能性は残る。
それは社会システムが圧倒的な困難をかかえていて、身近な関係性においてだけ自他の課題を解決すればそれですむというものではないからだ。
あらゆる問題が凝縮した形で、たとえばターミナルケアの現場に、たとえば自殺防止ホットラインや虐待ホットラインに、たとえば公立学校の教員に怒濤のように押し寄せる。
しかもその現場でも、水平的な敵意というモラルハラスメントの問題が起こる。
だから、「常にバーンアウトの可能性があるという自覚が大切だ」と、今日、パネルディスカッションで内藤いずみ医師が言っていた。
自宅におけるターミナルケアの世界で素晴らしい仕事を続けている方である。
スライドとして紹介された彼女の仕事の報告を聴けたことは、今日、心が洗われるほど感動した、もうひとつの素晴らしい経験だった。
そして、その内藤いずみ医師にして、「バーンアウトの可能性の自覚が大事」と言う、その言葉が、もうひとつ別の側面から、自分や日本じゅうの教師を照らす気がした。
これらの話をぼくはパネルディスカッションの会場からの発言のコーナーで、語ろうと思ったが、時間ぎれでその機会はなかった。
そこでせめてジョアンに言おうと思って、ハルさんに後で通訳してくださいと言っていたのだが、懇親会で、ハルさんのいないテーブルでジョアンの斜め前に座ることができた。
目の前は小田まゆみさんだったので、通訳してもらおうかと思ったが、小田さんはその隣の人と話していて、忙しそうだったので。ぼくはこれもトライだと思って、自分でジョアンさんに英語で語った。
するとジョアンさんは、ぼくが今日日本語でおなじことを語った誰よりも傾聴してくれた。
話し終えると、わかります、まったくそのとおりだと言って、ぼくの目を見て、ぼくの両手をとってくれた。
それを見た小田さんが話に入ってきて、ジョアンさんが、今ぼくが語ったことをもう一度小田さんに説明した。
小田さんもよくわかると言ってくれて、そのときできたトライアングルはとても素敵だった。
そのときぼくがもうひとつ話したことは、もしも、学校の教師の誰ひとりとしてチャプレンしーのスピリットで「わたしはあなたを見捨てない」と言わなければ、その子が後に学校に乱入して人を刺す可能性が生じると言うものだ。
実際には、もしも誰もなにもできなかったとしても、誰かがチャプレンシーのスピリットで自分を見てくれたというその感触は、この世にひとつの可能性を開くことになると思う。
だから性急な結果を求めず、私が私を見捨てず、存在が存在を見捨てない生き方をただただ踊り続けよう。
ほかの何のためでもない。
それ以外に、生きて死ぬ真正な道はもともと存在しないのだ。