2017年の今日の日記
釜ヶ崎芸術大学「風の声」の感想。(講師 西川勝)
哲学カフェをするというので、ちょうどどぼちょん家族に三角公園に戻るのにいい時間帯だったので参加した。釜ヶ崎芸術大学の講座に参加するのは久しぶりだった。
臨床哲学って何か精しく知らないけど、それを言っているわりには、講師が話しすぎと思った。風の声についての経験を参加者に聴いたので、僕はアメリカでひとりで森に入っていったとき、完全にひとりになったとき、360度全方向に聴覚が働いて、覚醒し、すべての風の音を聞き分けて、至福に満ちた状態になった話をした。
講師がそれを受けて、孤独になって初めて聞こえるものがある。この街は、孤独な人がやってきて、お互いの声が聞こえるという話をしたとき、僕はちょっとムカついた。で、
「あの哲学カフェが何かわからなくなりました。自分の話をねじまげられた気がする」と言った。
すると講師は「ねじまげていない。僕の話です」と言った。
僕は、「あ、自分の話ですか、なら、わかりました」で収めておいたが、(ほかの参加者がそのやりとりを聞いて笑っていたのは、本能的に場を和らげようとする反応だったのか。僕は、このファシリテーターは人の話を聞いていないと感じて、明らかに怒っていたのだ。)
ファシリテーターと一参加者の両方の立場があるというなら、その境界をはっきりしてほしいと思った。「完全にひとりになったとき、自然の中で覚醒した」と僕は言った。その「ひとりになる」を受けて「本当に孤独になったとき、この街に来る人が多い。そして人の声が聞こえる」と言ったのだから、話がつながっている。これは司会者が話を受けて次に繋げるような間合いであって、
「今、ひとりになるときという言葉に刺激されたので、少し、私自身のことを語らせてください」と言ったのとは違う。今、ファシリテーターなのか、一参加者なのかわからないではないか。一参加者として語るなら、そう言ってくれないと、自分の話を受けてファシリテーションしていると誤解する。
いずれにしろ、さっきまで自分がたくさん話していた講師は、「自分だけが話すのではなく、皆さんが話す場です」と言って、始ったばかりなのだから、自分の話をするにはタイミングが早すぎる。実は思わず知らず、司会の流れのままにズルズルと自分の話をしてしまい、僕が「ねじまげられた」と言ったので、はっとして「自分の話だ」と言ったのではないのか。臨床哲学のファシリテーションが下手すぎると思った。
また実はこの話は、釜ヶ崎芸術大学の存在意義とも絡まって、ある種の結論みたいなものではないかとも思った。それはそれで一定の意味ある思想だが、結論として存在するときには、臨床哲学ではないのではないかと思った。
それからは、講師は自分の話は控え、人々の声を聴いたと思う。吹き抜ける風が一番気持ちいいという人がいた。僕は、風が吹く話が続いたが、風に乗るのはもっと気持ちいいと言った。すると山嵜さんが、私は風を興したいと語った。
ファシリテーターは、特に結論というものはないのですが、まだ発言してない人、何かありますかと言って、発言を促し、ひととおり声を聞いて、会を閉じた。ひととおり聞くのはいいのだが、ファシリテーションの仕事としては、「風が吹き抜ける」「風に乗る」「風を興す」という多様な風との関わりのイメージが、皆さんから出されて興味深かったと、そういう整理こそ、仕事としてしておけば、なんか知らないうちに終わるよりよかったのではないか。
僕は今のところ、上田 假奈代さんの詩の講座と水野阿修羅さんの表現の講座と今日の西川勝さんの哲学の講座しか出たことがないが、上田さんの詩の講座以外、釜ヶ崎芸術大学でいい講座だと思ったものはない。