とうとう空海について記事アップ始めちゃうの? (^0^)
拙著『魂の螺旋ダンス』改訂増補版より
・ 空海における即身成仏
ところで、真言密教の大成者である空海はこの国の仏教を考える上で避けては通れない巨大な人物である。
私の考えでは、親鸞を論じると同時に空海を論じ、空海を論じると同時に親鸞を論じなければ日本仏教を語ることはできない。
これには異論もあるだろうが、私は今仮に平安仏教の極を空海に代表させ、鎌倉仏教の極を親鸞に代表させて、平安仏教と鎌倉仏教の照らし合わせを行うことが可能だと考えるのである。
この二人の巨人が互いを照射し合う光景の中で、日本で独自に発達成立した「日本仏教」とはいったい何なのかということが、おぼろげながらも「立体像」として立ち現れてくるのはないかと思うのだ。
もちろん親鸞と空海の照らし合わせという仕事は大事業であり、私はここで一気にその仕事を片付けてしまおうというわけではない。
ただ私は現時点での考えをここにメモしておきたい。
そのことを通じて、超越性と大地性という二つのベクトルから生じる螺旋についても、別の角度からの光が当たると考えるからである。
さて、空海の成し遂げた仕事は多岐に渡り、その要約は非常に難しい。
が、私はここでは、その思想的精髄を『即身成仏儀』の中の「重重帝網を即身と名づく」という句に見ておきたい。
帝網(因陀羅網)とは、帝釈天(インドラ神)の宮殿を荘厳する網である。その網のひとつひとつの結び目には、皆宝珠が付けられていて、その宝珠にはほかのすべての宝珠が映っている。またその映じている宝珠のうちにもすべての宝珠が映っている。無限の反映とその交錯の壮大なヴィジョンである。
もっともこのヴィジョン自体は華厳の世界観である。
が、空海はこの世界観を単なるイメージとして終わらせなかった。彼は、心身変容の技法の具体的実践において、この身そのままが「帝網」であることに目覚め、体得した。宇宙大の事事無碍円融、重重無尽なネットワークそのものである自己に目覚めたのである。これが即身成仏である。
空海においてはもはや「重重帝網」は経典に描かれた詩のようなものではない。それは即ちそのままこの身なのだ。壮大なる宇宙的ネットワークと一つとなったこの身。空海は因陀羅網を観念的な思想に終わらせるのではなく、行法によって「この身」の上に具現化したのである。
ここで重要なことがひとつある。
それは空海の心身変容技法に関わることだ。空海が「重重帝網」を「即身」において成就できたのは、密教の哲学によってではなく、むしろ若き日の山林修行を基礎にしてのことである。つまり空海はこの島のシャーマニズムの心身の変容技法(修験)との出会いを通じてこそ、仏教の世界観を自らの身に実現したのである。超越性と大地性を見事に結びつけ、豊かでかつ無限の自在性を得た世界を開陳したのである。それこそが彼の最大の思想的実践であり、達成であったと私は考える。
だからこそ空海の影響力は非常に大きく、この島のその後の仏教(超越性宗教)も、修験(シャーマニズム)も空海抜きには語りえないと言っても過言ではない。
だが、では空海は国家宗教の次元を突き抜けて、地上の権威のすべてを相対化する超越性の次元へと突き抜けたのだろうか。
これは非常に複雑な問題である。教科書的な歴史では、空海らの平安仏教は鎮護国家の仏教であると分類されるが、もちろん事柄はそれほど単純なものではない。見てきたように「即身成仏」は壮大で深遠な思想的実現である。宇宙的なレベルでの自己解放である。
だが、どうだろうか。仏陀やイエス、さらに親鸞に見てきたような「パラドキシカルな究極点」における「自我の瓦解」はここに見られるだろうか。むしろ「即身」という用語の「この身このままで」といったニュアンスは、超越性宗教の垂直運動よりは水平方向への巨大な抱擁性を感じさせはしまいか。
私の考えでは、実はここに空海思想の特異な性質がある。
空海の思想は、仏教の範疇にありながらも、超越性の方向へ鋭い運動を見せるよりはむしろ限りなき抱擁性に向かって広がっているのである。「壮大さ」という意味では史上最大の規模を有しながらも、垂直的な超越性のベクトルは強くはなく、その替わりに限りなく水平に広がるシャーマニズムの性格を色濃く持っているのだ。
結果、空海の思想的実現は「超越性宗教」の特質を有するものではないと言わなければならない。
そしてその「垂直的な超越運動が重視されていない」という特質は、「地上のすべての権威を相対化していく働き」が不徹底となるという特質につながっていく。このことが社会的側面においてはどのような問題を派生していくかは、次節で考察してみたい。 (つづく)