(以下五木寛之)「ぼくは浄土というものに対して非常に大きな疑問を抱いているのです(ー中略ー)一方的な無限の光明も無限の生命もちょっと困るし、その点では現代人が仏教の涅槃あるいわ(引用元ママ)輪廻というものについて素朴な疑問を持つところを、それに対してきちんと、経典にこうかいてあると言うのではなく、「私はこう思う」というかたちで、仏教思想家といわれる人たちの言葉を聞きたいとみんな思っているのです。それがなければ現代の人たちに対して説得力がないと思います」(五木寛之おわり)
以下僕の意見 「懺悔と賛嘆ではなく二種深信にフォーカスするべきというだけのこと」
懺悔と讃嘆ということですが、いきなりそういうと、道筋が見えないということは確かにあると僕は思いました。
そのような言葉をいきなり出さず、まずは真摯に見つめようというなら、近代人も反対しないと思います。
真摯に見つめたとき、自己の中に自己の存在根拠はない、自分は自分の思い通りにできるものではないという事実は、近代人も直面すると思います。
これを懺悔というより、機の深信という方が、思想的には受け入れやすいのではないかと思います。
それは五木寛之の言うような「私が思うこと」ではなく、真実である。
ただ懺悔というと、少し情緒的な匂いがし、それへの抵抗がある人も、(私もそうですが)、機の深信を真実として受止めるほかないというのは、まぎれもないことと認めうると思うのです。
さらにそのことを真摯に見つめるとき、その底を破って無限の光がすえとおる(法の深信)ということも、ただ真摯に見つめるだけで起こることであって、近代人が「盲信」と忌み嫌うような意味での「信仰」とは関係なく、ただの真実だと思います。
実は浄土に疑いを持つと表明する五木寛之さんの方こそが、浄土や光を実体的にとらえる罠にはまっているのであって、原則をただ真摯に見つめること一本に絞ったら、そこに二種深信が伴う契機はいずれ訪れるものであり、そのとき、廻向されてくる限りなきはたらきを感じずにはいられない。
するとそれは、讃嘆ということにもなっていくと思います。
それは近代だろうと、大昔であろうと何のかわりもないことであろうと思います。
そして近代だろうと、大昔であろうとどこか中途で実体的にとらえることでひっかかると「それって盲信ではないの?」という疑団から抜け出せなくなるものと思います。