・ オウム真理教の構造
サイコテクノロジーそのものは、人類が太古から有しているものだ。
インドにおけるその歴史を簡単に振り返ってみよう。
太古のインドでは、聖なる植物を摂取したり、太鼓を連打して踊り続けたりすることにより、変性意識に至る技法が用いられていた。
が、それらが祭司階級により弾圧されると、主に特定の姿勢の保持と呼吸の制御、マントラの詠唱などによる変性意識が追求されるようになり、ヨーガの体系が発達した。(テレンス・マッケナ『神々の糧』等)
クンダリニー・ヨーガはその中でも最も強力なテクニックであった。
またそこには、エネルギーのポテンシャルの高いグルが、弟子のクンダリニーと共鳴現象を起こし、その目覚めを促すシャクティパットのテクニックも加わった。
そのため、通常のヨーガでは何年もの修行を必要とするエネルギーの目覚めを極めて短時間で達成することも可能となった。
このようにして目覚めたエネルギーは、心身のトラウマやブロックといったものを焼きつくす。
最初のうち、そのエネルギーの働きは燃えるような熱さとして感じられる。
だが、それはエネルギーそのものの熱さというよりも、燃えていく業(カルマ)の熱さである。
主なブロックが焼き尽くされると、エネルギーは今度はさわやかな風のようなものとして感じられる。
心身を吹き抜ける宇宙の風。
あるいは透明な光。
自己は、その自在な光と風のゆらぎの中に見えなくなる。
自己が見えなくなるといっても、覚醒がなくなるわけではない。
鮮やかに目覚めた観照性そのものはそこにある。
だが、何といったらいいのだろう。
いつものあの固い主体のようなものが見当たらなくなり、ただ軽やかに今ここのプロセスを踊っている手のひらの舞が見えるばかりなのだ。
こうして、私は立ち上がり、日々の営み(行住坐臥)を始める。
ただただ今ここにあり、プロセスを生きる。
だが、その突き抜けるような自在さは、しばしば見失われる。
だが、見失われたあの状態を、再び得ようと焦ることは、むしろ問題をこじれさせる。
常にその状態にあることだけが真実だというこだわりは、それ自体、新しいブロックだ。
無心の舞を持続「しようとする」ことによっては、けっして「無心の」舞は起こりえない。
まさしくその「持続しよう」とする心が作為だからだ。
この人為的な無心の絶対不可能性の直視において、私は再び自己を手放す。
いや手放すのではなく、その絶対不可能性を観た瞬間に、初めからあった光の舞だけが、そこにある。
私が親鸞思想の三心に見たのは、そのような構造において、瞬間瞬間に目覚めを更新していくあり方なのであった。
だが、それをコントロールし、不動のものにしたいという欲望は、人間の心に生じやすいものだ。
麻原彰晃は、その「完全に解放された状態」を固定できると考えた。
「では、ヴァジラヤーナとは何だと。これはいっさいの干渉する要因、それを肯定する。そして肯定していながら、それといっさい無干渉の自分自身の心をつくり上げていくと。その情報に左右されないと。金剛の心をつくると。これがヴァジラヤーナである。」「ということは結論は何かと。それは、いっさいの心を動かす要因から完全に解放され、そして自由になることである」(『ヴァジラヤーナコース 教学システム』麻原彰晃)
ヴァジラヤーナとは後期密教が、自らの大乗の次に来る教えとして定義する際の呼称である。
麻原はそれを自分なりに歪曲して表現しているようである。
実際のヴァジラヤーナがどのような思想を展開していたのかは、麻原の言動とは別に慎重な検討を要するだろう。
そこで、ここでは麻原の言動に沿って言うのだが、「いっさい無干渉の心」「左右されない金剛の心」を得て、それを完全に固定してしまおうとするこの思想の傾きは、超越性宗教が再び固着を起こし、権威化する際の典型的な最悪のパターンを示しているのである。
・ ニューエイジに潜むグノーシス主義
中沢新一は論考「『尊師』のニヒリズム」(『イマーゴ 一九九五年八月臨時増刊『オウム真理教の深層』所収』において、オウム真理教のヨーガ理論は、ヒンドゥのヨーガ理論から、いくつかの重要な点で逸脱していると述べている。
中でももっとも重要な逸脱は、ヒンドゥでは、世界を真我の「展開」と理解しているところを、オウム真理教では「落下」としてとらえている点にあるという。
ここには現象世界に対する強烈な「ニヒリズム」がある。