井筒の未発の意識と、已発の意識についての記述を読んで、僕は禅と浄土教の違いについても悟るところがあった。
浄土教では、あくまでもこの世での(カルマにまみれた)已発の意識に根拠を置くので未発の意識は彼方からのもの=尽十方無碍光のように感じられる。そして已発の意識で已発の意識を失くすことはできないので、その彼方からの働きかけに任せるしかないととらえる。
しかし、禅においては、日常の中にも已発の意識と已発の意識の間隙としての未発の意識を見出していく。そしてそれがそのまま無限定な空なるものに通じていることに覚醒していく。
だから禅における観照性は未発の意識のことを言っているのであって、これを已発の意識と区別しないでいると、自意識がそのままどこまでも持ち越される。未発の意識と、已発の意識という区別は、そこのところの整理をすっきりさせてくれたのである。