シンクロニシティと言って、わざわざびっくりする人がいると、びっくりするけど、すべてはシンクロニシティじゃない? それ以外の現象はあるのかしら?
というわけで、最近、かなり以前に書いたFACEBOOKのnoteの臨死体験ものに今になっていいねを順につけている人がいるので、自分でも忘れていた原稿を読むこととなり、アップしたくなった。
2014年10月27日
NHKスペシャル 臨死体験 立花隆 思索ドキュメント 死ぬとき心はどうなるのか (2014年) を見ました。
私はこの番組が脳から意識が生じたと言っていることに違和感を覚えました。しかし、意識というとき、それはすでに人間の認識構造の限定を受けた意識を指すかどうかわからなくなるので、私はもっと明確に脳から「覚醒」が生じ得るかという問題提起をたてたいと思うのです。
世界がどのように見えるかは、人間の認識構造によると思います。トンボに見える富士山と人間に見える富士山は違うでしょう。
また「富士山」という言葉は、「富士山という固定的実在が存在する」と誤解を招きやすい「名詞」ですが、実際には「富士山」と呼ばれているものは、一瞬一瞬変化しているひとつらなりのエネルギーのダンスを麓のどこかから勝手にボーダーを引いて、人間が「富士山」という名詞をつけて理解したものにすぎません。それは、富士山と富士山でないものを分ける言語によってしか認識を成立させえない、人間の二元論的な認識構造の限界です。
しかし、「覚醒」はそのことを含めてすべてを自覚していることができます。
その覚醒は、脳の認識構造の中から発生したものではない。どんな神経ネットワークの認識構造からも覚醒そのものは生じえない。それは宇宙のはじめからあったものです。
その「覚醒」は禅では、呼吸をただ観つめているとき、止観(サマタ・ヴィパサナ)として、つまり思考の働きが静止して、観だけがそこに残るようにして、ありえるように取り扱います。(本来の)マインドフル瞑想もそうです。(今は亜流が流行しすぎ。)
が、浄土教では人間は常に思考におかされる煩悩具足の身であるから、そんなことは不可能であるとし、その覚醒はただ「如来から賜りたるもの」として、彼方から観つめられているような構造でとらえます。
しかし、究極的には同じ不二の「覚醒」だと思います。
私が言いたいのは、脳が死んだらその認識構造の限界が終了するから、覚醒だけが残る。そのことを臨死体験では垣間見るということです。脳が最大に活性化している時ですら生じ得なかったその無碍なる覚醒が、脳が死にかけてほとんど機能しなくなったときだけ、生じることの理由は、脳の働きとして説明するより、脳が邪魔しなくなったときに露わになる真実として説明するほうがよほど理にかなっています。