2016年に書いたもの。
東京大学(定年退職後上智大学)宗教学の島薗進先生は、僕の論文『螺旋』を、サルタヒコフォーラム奨励論文にイチオシしてくださり、『魂の螺旋ダンス』書籍版出版への道を開いていただいた恩師。
『愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか』中島岳志 島薗進
読了。
後半で気になったのは、「多一論」についての中島岳志の楽観性だ。たとえば、ガンディーらと並べて西田幾多郎の名前もあげて、多一論への期待を語るくだり。(p209)
中島は西田が「絶対矛盾の自己同一を体現しているのは皇室だ」とまで発言しているのを知っていて、こんなことを言うのか。
島薗進はそれに対して、日本の思想家について、各論を具体的に論難するのではなく、「楽観的で危うい」とだけコメントする。ここで島薗が例として引くのはたとえばヒックの宗教多元主義であったりする。
(第二ヴァチカン公会議以降の、ラーナーの包括主義、ヒックの宗教多元主義までの流れは、拙著『魂の螺旋ダンス』のp227からも参照にしてください。)
島薗が、楽観的で危ういとだけ言い、日本の思想家への具体的論難を避けて無視したのは、僕はわざとだと思ったが、どうなのだろうか?
これを個別論難していたら、かなり反日的な印象を与えてしまいかねない。
ここは、宗教学の大家が、せっかく中島岳志と対談して、ちょっと幅広い層に思索の糸口をもってもらう本をつくっているところなんだから、そんな印象を与えて損するより、これぐらいでいいというのなら、その慎重な判断を僕は支持する。
ただし、実を言うと、本当のことをぜんぶ言ったとしても、それは反日などではなく、思想的に真実思うところを発言しているだけだと思うけど。
天皇の求心性は、今のところ、戦前ほど強くないが、嫌中・嫌韓は強い。その中でアジア的価値観の中にいかにして立憲デモクラシーと歩調を合わせる精神性を見ていくか。あるいは中国が多様な民族を共存させていくという課題と、日本が国家主義に向かう流れを克服していくという課題を同時に考えていく。・・・・といった島薗進のまとめはいいと思う。
ぜんぜんとんがっていないけど、的を外していない。重要な役回りであろう。
この本はこの問題について考えはじめた人への優れた入門書となることを意識していると思った。
僕が個人的に付け加えるなら、中島岳志が、「親鸞主義の自力の否定という側面が全体主義にまきこまれる因となった」としている分析について、もっとつっこんだ考究が必要とされていると思った。中島の親鸞思想理解は、通りいっぺんのもので、専門家のものとはいえない。
明治以降の真宗の近代教学が(あるいはそれは江戸時代には始まっていたかもしれないが)、どこからどのようにして親鸞思想を逸脱し、全体主義を積極的に支えることになったか。その結果部分については、既に真宗内部における戦時教学の反省において表明されているが、どこから逸脱が始まっているかの正確な分析は、している人はいるだろうが、広まっているとは言えないと思う。
僕の考えでは、親鸞思想の本質は、二種深信ということを外しては語り得ないものである。そこをないがしろにすることと、真俗二諦論が組み合わさることが最悪の結果を生んだ。
それはいつどこで始まり、どういう過程を辿ったのかは、今後、僕自身が分析、発表したいと思っている。