ALISの参加者にクンダリニーヨーガについてそのうち記事をアップしますと約束した。
が、オウム真理教事件のあったこの国でクンダリニーヨーガについて述べるのは、準備というものがいる。
そこで今回はまず、カルトは何かということについて、例によって、『魂の螺旋ダンス』改訂増補版から引用しておきたい。
注 日本ではヨーガのことをヨガという人はけっこういるけど、サンスクリット語には短母音のOはなく、すべて長母音なので、私はヨーガと表記するようにしている。
(以下引用)
・ カルトとは何か
「カルト」という言葉は、もともとキリスト教プロテスタントの立場から見て異端とされる宗教集団を呼ぶ言葉であった。この時、プロテスタントの立場からは、「自らもまた誕生の瞬間においては、一つの異端ではなかったか?」という視点が、すっぽりと抜け落ちてしまうらしい。
そもそもキリスト教もその初期においてはイエスを中心とするラジカルな異端集団だった。またプロテスタントについて言えば、ルターらの宗教改革も当時は一つの異端的運動だったと見ることもできる。
確かに、時の国家権力や有力者と結びつき体制内化した宗教は、異端としての「カルト」ではなくなる。だが、留意しておくべきなのは、その体制内化した状態がいわゆるカルトよりも、「まし」であるかどうかは保証の限りではないという点だ。
むしろ超越性宗教が、体制内宗教として軍事力と結びついた時、それは侵略性を帯びて、残虐の限りを尽くすことは、見てきたとおりである。
共産主義という名前の、歴史を神とするある種の超越性宗教についても事情は同じである。
私はマルクスの著作(特に初期)には、大きな共感を覚える部分もあるが、それが体制内「宗教」となって軍事力と結びついた姿には、深い戦慄を覚えてきた。
「カルト」と、「侵略性を帯びた絶対性宗教」とは、いわばポジとネガの関係にある存在である。同じコインの裏表と言ってもいい。
どちらもラジカルな宗教集団として出発するが、体制に順応して発達を遂げることができず、内閉していくときそれは「カルト」となる。
そして、時にそれらは体制側からの弾圧を受けたり、自ら自滅的な動きを展開したりして、大きな事件を引き起こす。
アメリカ合州国などでは多くのカルトが生まれてきた。
特に一九七〇年代以降は、新しいタイプのカルトが次々と誕生した。アメリカだけでも現在カルトの数は約三千あるといわれており、信者数で言うなら三百万人とも言われる。
中でも、大きな事件に発展したものだけ取り上げ列挙してみよう。
一九七八年、人民寺院の信者たちが、南米のガイアナで集団自殺。九一七人が亡くなった。
一九九三年、ブランチ・デビディアンという教団とFBIが銃撃戦。結果、自ら火を放ち、八〇数人が集団自殺した。
一九九四年、太陽寺院の信者が、スイスとカナダで同時に集団自殺。後追いを含めて七四人が亡くなった。
一九九七年、サンディエゴの天国の門の信者たちが、UFOに乗って崇高なレベルへ旅立つとして集団自殺し、三九人が亡くなっている。
これらのカルト事件に共通するものは、「真実は自分たちにあるのに、世界中が束になって自分たちを弾圧しようとしている」というような強い強迫観念にとらわれ、自滅的な行動に出たり、集団自殺してしまうというパターンである。
このような中で一九九五年三月、日本で生じたのがオウム真理教による地下鉄サリン事件であった。
当時アメリカに住んでいた私は、四月三日付けの英語版「TIME」誌を持っている。表紙は一面、麻原彰晃の正面顔写真に埋め尽くされている。オウム真理教についての特集記事の中、私が特に関心を持ったのは、34ページのコラム記事であった。「Lost without a faith」と題したこの記事は、リードに「戦後の精神的空白の中、日本人たちが新しい神を探している」と記している。
非常に興味深いのは、この文章の中で天皇制軍国主義を「the imperial cult」(天皇制カルト)と呼んでいる点である。アメリカ人、特にWASPと呼ばれる「白人でアングロサクソン民族でプロテスタント」の視点から見ると、実に天皇制軍国主義はひとつの「カルト」なのである。
私は、絶対性宗教が体制側と結びつく時には、カルト化とは別の道を歩むと言った。しかし、地球規模で見れば支配的な世界体制と結びついている宗教は、(現代においては)究極的にはユダヤ=キリスト教的なものだけだと言えるかもしれない。その視点から見ると、天皇制軍国主義も世界情勢の中では追い詰められた特殊な狂信的集団の方に含まれるわけである。
だからこそ、天皇制軍国主義のたどった道は、多くの自滅的カルト教団と共通の軌跡を描いた。
そもそも真珠湾攻撃の暴挙には、カルトによる「窮鼠猫を噛む」のパターンに共通したものがある。また、いよいよの際には、一億玉砕という名の史上最大の集団自殺さえ謳われていたのである。さすがに総玉砕は回避されたが、実際にいくつもの戦線や沖縄では、集団自決によって多くの人が亡くなっている。
さて、「TIME」誌の記事は、「天皇の人間宣言の後、日本人は新たな神を探し、多くのカルトや宗派を作り出してきた」と分析を続ける。その中で筆者は現代でも最も危険なカルトは「天皇制カルト」であるとし、一九七〇年の三島のハラキリや、右翼による一九九〇年の長崎市長狙撃事件に触れている。
しかしさらに興味深いのは、続いて左翼過激派の自己犠牲や暴力についても同様に扱う点である。こうして「連合赤軍」が例に挙げられる。
つまりこの記事においては、「救世的な夢が行き詰まり、絶望に至った時、暴力に走るかまたは自決する」という典型的パターンにおいて「天皇至上主義」も「連合赤軍」も、同じく「カルト」の範疇に入れられてしまうのである。
「窮鼠猫を噛む」…まさしくそれは、カルトの自滅のパターンとして普遍的なものなのだ。
ところが、一方猫とは言えば、常に鼠を恐れているものである。権力者が最も恐れるものは自らの権力を奪取しようとする力を持った「獅子身中の虫」である。
それが故に独裁者の下では多くの粛清が行われる。それは歴史の常であった。
あるいは国家は、自らの外部に対しても恐怖を抱いている。こうして国家間の相互不信においては、地球を何度でも破滅させられる軍備が整えられる。
この内部への粛清と、外部への恐怖において、実に国家はカルトと全く同じ構造を持っているではないか。
カルトを叩く際の国家側の自己矛盾は、国家は強大な暴力装置であり、カルトはその相似形に過ぎないという点だ。
アメリカとロシアはそれぞれ数万トンの化学兵器を有しており、その中にはもちろんサリンも含まれる。
その他、多くの国々も化学兵器、細菌兵器、核兵器を有している。その愚かさを直視するとき、カルトの末路を「被害妄想による自滅だ」と笑うことはできなくなる。
とどのつまり、これは、人間の相互不信の果てしない相克が描く地獄絵なのだ。カルトの起こす事件は、その地獄絵の鋭く光る断片である。
その断片に目を射られたなら、しなければいけない事は、またしても自分たちの恐れをそこに投影し合う事ではない。カルトの側にすべての責任を押し付けて抹殺しようとしたり、また逆に天皇制国家やユダヤ・キリスト勢力といった強大な存在の方を断罪して、ルサンチマンを晴らそうとすることでもない。
そうではなく、人類はこの「相互不信の地獄絵」の全体像をどのようにして変容していくことが可能なのか、という点が肝要なのである。
しなければいけない事は、この無限に続くように思える「相互不信の地獄絵」にいかにして終わりをもたらす事ができるのかについて智恵を出し合うことなのである。
(引用終わり)
現在の日本はまさしく国家自体のカルト化が絶望的なまでに進行しているので、根本からこのような宗教学の議論をやり直すことはますます重要になってきていると私は考えている。