良記事についての話題は尽きないが、
そもそも日本語の良いの反意語は悪いだと思うのは
近代語ではそう言えなくもないが
もともとは
よしの反意語は
あしである。
よろしの反意語は
わろしである。
あえて順に並べると
ベストからワーストまで順番に
よし よろし わろし あし
の順である。
そのように、学校では国語(古典)の時間に教える。
現代語(?)では
ありよりのあり なしよりのあり ありよりのなし なしよりのなし
である。 ? 知らんけど。
よしは、真理としても、美としても、倫理としても、よい。
真善美どこから見てもよいという意味をこめていいだろう。
しかし、わろしには、少なくとも、倫理的に悪いという用例は殆どない。
枕草子に、「昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶の火も、白き灰がちになりてわろし。」というも、
倫理的に悪であるという意味はなく、趣味がよくない、美的に今いちという意味合いである。
殺人や盗みやヘイトスピーチや誹謗中傷が「あし」なのとは異なる。
よろしとわろしだけで考えると、多分に趣味の問題なのであって
かなり相対的である。
好き好きだというのはそういうことである。
また、別の例として、セクシャリティの問題で、ある種の表現によい印象を受けない人もいた場合は、
その人は、わろしと感じていると言える。
しかし、レイプそれ自体やそれを奨励する記事が「あし」なのとは異なると私は考えている。
(たとえレイプや変態(?)を含む性という現象の表現が含まれていても、それを深く観つめようと意図した真摯な記事というものはある。
その場合、その記事を感性の問題として「わろし」(気分がよくない)と感じる人がいても、その記事が「あし」と限らない。
それどころか、それによって、真実が抉られることを「よし」とする人さえいる。
文学やアートの世界ではよくあることなのだ。)
良記事の反意語は、悪記事ではなく、
あまり趣味がよくないなと人が感じる場合が多いような記事だと思う。
そのようなものは、古語でいえば「わろし」の領域に止まると思う。
しかも、人によっては「わろし」と感じるということにすぎない。
悪記事とは、悪意をいだいて、暴力や攻撃そのもののために書かれた記事などを言うと思う。
社会の価値基準がおかしくなると、「わろし」に厳しく「あし」に甘くなることがある。
自分が「わろし」と思ったものを攻撃するあまりの罵詈雑言の方が、悪意に満ちて「あし」である場合すらある。
それでは本末転倒であろう。
都合のいいときにだけ相対論にしてしまうのも、よく考えないといけない「やってしまいがちなこと」である。(自分も含め。)
ちなみに葦(あし)を、よしとも読むのは、あしでは、語感が悪いからだとされている。