(承前)
(2)鈍き刀と醒めかえった意識 その2
「そこはかとなく書きつくれば」
ただそのままに、書きつけていると、
「そこはかとなく」というのは、 「どれがいい考えだ、どれが悪い考えだなどと判断したり選びとったりすることなく、ただそのままに」ということだ。
「書きつく」というのは書く前のありのままに観てとるというプロセスを含んでいる。
そのままに観てとったものを、そのままに書く。
そこには、非常に研ぎ澄まされた醒めた意識を必要とする。
英語で「Awareness」 という。
「覚」という漢字があてはまる。
「覚」からは覚えるという意味も派生したが、記憶するという意味よりも、もともとは、その瞬間に起こっていることを、その瞬間にはっきりと観てとっている。
目覚めているという意味である。
兼好は一日中、ぼーっと考えていたのではない。
まるっきり違う。
彼は、どんな思いが心に浮かぼうと、はっきりとそれを見定め続けたのだ。
一日中、ぎりぎりいっばい目覚め続けたのだ。
ほんとうの意味での止観、禅、眼想を一日中続けていたとも言える。
「硯に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとを、 そこはかとなく書きつく」
これが彼の止観、禅、眼想なのである。
「あやしうこそものぐるほしけれ」
妙に冴えかえって、狂ってしまうのだ。
「あやし」とは通常でない、異常な意識の状態を指している。
しかし、何が正常で何が異常なのかは定義によって異なる。
もし、ふだんの僕らの意識の状態が、思いに囚われ、その背後の透きとおった青空のような心に気がつかず、完全に迷いの中にあるのだとしたら、
ここで 「あやし」と言われ、「狂っている」 と言われる心の状態こそが、むしろ「超正気」なのかもしれない。
僕らの日常の意識から見れば「狂っている」と見える意識のありようが、実はブッダ(目覚めし者)の悟りに、非常に近いものであるかも知れないのだ。
『徒然草』全編はこのような「超正気」 の境地で書かれた、
ただし 「鈍き刀」を用いてあまりに冴えかえった意識を日常の意識レベルと和解させながら書かれた、
空前絶後の 「雑感集」 である。
(まだまだつづく。冒頭だけではなく、いくつかの章段を検討します。)