意識とはなにものかについての意識である。(フッサール)
井筒俊彦「意識と本質」(旧版)p72に宋儒の静坐について書いてあり、已発の意識(この世での何物かについての意識)と已発の意識の間に、未発の意識(覚醒そのもの)に気づいていくことと書いてあった。
これは同じ表層意識の中で実は已発の意識と已発の意識の間に間隙があることに気づいていくこととしてよくわかる。瞑想の初期の段階でもそうだからだ。
ところが、このような修行を続けるうちに、未発の意識の方が広くなり、已発の意識の方は点在するにすぎなくなる。そしてついに未発の意識の垂直的根源において、意識のゼロポイントに覚醒する。これを朱子は「無極而太極」と名付けたという。大変よくわかる話である。
ここにおいて実は表層において已発の意識と已発の意識の間隙に表れている未発の意識というのは、実は死後の覚醒(永遠の今)にそのまま通ずるものであることがわかる。10代のときから、そうだと思って瞑想していたが、そのことを大変鮮やかに説明していると思った。
臨死体験で「無極而太極」そのものとなったことと、日常の「意識と意識の間隙」の閑かさは、実は通じるものだとよくぞ言葉で説明してくれたと思った。
私たちは生きているうちに死ぬことができる。それが瞑想だ。それが根源的な意味での詩心だ。・・・意識のゼロポイント。
閑かさや岩にしみいる蝉の声
古池や蛙とびこむ水の音 (芭蕉)
今のところ、井筒俊彦への個人的不満は、たとえば芭蕉、たとえばマラルメに言及しながら、例としての発句や詩を引用し実例を示すことを「しないこと」である。
しかし、これは敢えてのスタイルなのだろう。その詩精神を、論理の言葉で説明しきっている。左脳を通して、閑かさや岩にしみいる蝉の声まで、持っていくのが、井筒の腕の見せどころなのだろう。