獏は夢を食べる生き物だという。
靖が五歳の頃だっただろか。
天王寺動物園で初めて見る動物を指さして「あれが獏や」と靖の父親が言った。
なんという憐れな生き物だろうか。靖はそう思ったことだけを覚えている。
それ以来靖は獏という生き物にすっかり魅せられてしまった。
不登校がちだった中学生の頃、靖は時々、ひとりで天王寺動物園の獏を見に行った。
獏には頭がない。脳味噌の入るはずの頭蓋骨がない。東海道新幹線を走るひかり号よりも、もっと頭の上部が削れて尖がっている。あれでは何も考えることができない。
獏には前頭葉がない。前頭葉のあるはずの部分が既に体の外部であり、空中なのだ。だから昼の日射しのもとではそこには風が流れ埃が舞うだけだ。
夜になると獏の幻の頭蓋は肥大化し、前頭葉が闇の中に浮かび上がる。人間の脳に似ている気もするが、ぼんやりとしていて本当に似ているのかどうかが定かではない。
そこに朧げな光を放つカンテラが灯る。
獏の前頭葉に灯るカンテラ。
深海に棲む提灯鮟鱇にも似た風情だ。それはわずかにこの世界を照らし出すが、半ば夢に微睡んだままである。
意識の灯りは、脳の前頭葉に灯った光なのだろうか。
それとも宇宙のはじまりからあった今ここの光は、哺乳類の脳というぶよぶよの臓器に閉じ込められたのか。
獏が夢を食べるとは、夢幻でしかないこの世界を端から喰って蝕んでいくということなのか。
靖には獏は夢ではなく土を喰っているようにしか見えなかった。ただその速度はやや遅きに過ぎるように感じられるのがせめてもの救いだった。
やがて靖が命を終えるまでこの地球はまだ全部喰いつくされることなどないと思われる。自分が立っている大地は消えてなくなりはしないだろう。死ねば焼かれて灰となり、まだ存在している土の上に撒かれるだろう。
だが本当にそうなのか。今晩のうちにも夢が喰いつくされてしまえば、明日の朝にはこの星は存在せず、星降る無限の時空だけが広がっているのではないか。
その際にはもう靖の身体も喰いつくされて透明となり、色もなく形もない目覚めだけが果てしなく広がっているだけなのではないか。
夜の布団に就くと、昼間見た獏の姿が思い出され、靖は本物の恐怖というものの味を知った。
ただただすべての意識を喪うのが死ならば、そんなことは恐怖の片隅にも置けぬ安心ではないかと思えた。