教育は実は
質で考えたり感じたりするしかない中身の世界を
数字で序列化できる量的な世界へ移し替えることに長けている。
(ALISのいいねと配布ALISの関係、新カテゴリー総選挙なども
いくら工夫してもどこまでいってもそれと同じであることは、人間がすることの限界かもしれない。)
簡単な例で考えてみよう。
テストを受けた。
僕は何点だった。
あの子は何点だった。
それをまるで絶対的な序列を表す結果のようにとらえてしまうことがあるが、
実は
そんなものは配点の仕方でもどうとでもなる。
こちらの○は一点、こちらの○は二点。
誰が決めたの?
先生が決めた。
でも、一番の10問が2点で
二番の10問が1点なのではなく
一番の10問が1点で
二番の10問が2点だったら
点数は簡単に逆転したのである。
配点を先に発表してないなら
後から操作も可能である。
もちろん後からの操作は
しないに越したことはないのだが、
たとえば底辺高校の教諭をしていたとする。
テストが終わってから
そうか、予想に反して、皆、こっちの問題はできるが
こっちの問題ができないのかーーーーと気づいたとする。
これ配点が逆なら単位落とす子が少なくて、
他教科と合わせて計算したとき、留年少なくなるよな。
だけど、予定どおりの配点なら、たくさん留年だーーーーーー。
さあ、どうする?
しかし、まあ、ふつうマイナー教科以外は学年に同じ教科の先生は二人以上いるので
あとから、配点替えましょうは滅多に話が成立しない。
こっちの子が有利になるとこっちの子が不利になる。
不利になっても単位失うわけじゃないから、こっちの子、助けた方がいいじゃんと思っても
普通はいったん決めた配点は変えない。
酷だけど、君は単位落としました・・・となる。
でももともと一番が2点で二番が1点にしたのは、全部で100点にするために
いろいろ工夫するプロセスで、これはこれぐらい正解してほしいという
おおよその見通しでやったことで、絶対的な理由なんかなかったのだよなあ。
入れ替わっていたとしても、天地、神仏、宇宙の真理などを裏切ることになったわけではない。(;゜ロ゜)
だけど、それでその子が一年を失ったり、級友と離れたり、
場合によると諦めてしまったりお金がなくて退学、
人生そのものが変わることもある。
こっちを二点に、こっちを一点に、根拠なく、そう決めたばっかりに
子どもの人生そのものが変わることがある。
恐ろしい仕事だ。(;゜ロ゜) (;゜ロ゜) (;゜ロ゜)
まあ、補講、追試とか、いろいろまだチャンスは用意するんだけどね。
こんな風に。
昔、まだ二〇代前半の若造で子どももおらず教員でもなかったころ、
無着成恭という僧侶にして教育者の講演が聞いたことがあった。
生活綴り方運動などで有名だった先生だ。
その講演の中で、彼はこう言っていた。
にんじんときゅうりがあったら、両方違う味で両方おいしい。
両方食べたいですよね。
でも、それにお金が介入すると、数字なので価値に上下が出る。
高い方が値打ちがあると人が考える。
が、本当かな?
本当は両方おいしいんですよね。
お金とか成績とかは、実は質的なことを数字にして並べる詐欺です。
まあ、これはたぶん教育や子育てのとき、基本にもっていなといけない考えだと
そのとき、思いました。
芸術や文化に携わるにあたっても。
クリプトは???
うーん。
それは難問だ。(;゜ロ゜)
自分が持っている暗号通貨は上がってもらわないと・・・・。(;゜ロ゜)