去年の今日の日記
真宗聖典の浄土論をたぶん35年ぶりに通読した。
極楽の観察荘厳は一法句に入るというところには、学生のときにちゃんと傍線を引いていた。
それを30年後に臨死体験で実際に観るまで人生は走馬燈のごとく流れた。
傍線を引いてあったのは、以下の部分。
この三種の成就は、願心をして荘厳せりと、知るべし。
略説して一法句に入るがゆえに。
一法句とは、いわく清浄句なり。
清浄句とは、いわく真実の智慧無為法身なるがゆえに。
僕の解釈が間違いでなければ、
経典にいろいろ、極楽のことがこんなところ、あんなところと書いてあるのは、法蔵=阿弥陀の本願が、人々が往生したいと思うようにそのように描いたのであると知るべきである。
ほんまのこと言うたら、ただのひとつの言葉に集約される。
それは「清浄」ということである。
清浄というのは、なぜそういうのかというと、真実の智慧は「私」なくしてただただ無為に無碍に広がる色も形もない覚醒だからである。
ということです。
これがほんまの臨死体験の究極です。『魂の螺旋ダンス』改訂増補版に書きました。
しかし、世界の臨死体験の文献はけっこう読んでいるけど、あまりここまで書いているのを見たことはない。
臨死体験ではないけど、書いてあるなと思ったとしたら、天親の浄土論、曇鸞の浄土論註。
親鸞によるその解釈という流れの「極楽論」です。
ほかにはあまり見ない。
みんな、願心によって、比喩を使っているのかあ? (^0