真の連帯への4つのステップ
1 痛みの共感から救援活動へ
2 救援活動の行きづまりから構造悪の認識へ
3 社会的・政治的行動へ 構造悪と闘う貧しい人たちの力
4 単純な「弱者賛美」から真の連帯へ
本田哲郎は、南アのドミニコ会、アルバート・ノーラン「社会活動のためのスピリチュアリティ」(1988)を下敷きにしている。
僕は本田哲郎に弱者賛美の微妙な痕跡を見る。
それは弱者への差別の痕跡ではなく、弱者へのコンプレックスの痕跡だ。
これが、前回、彼の本を読み漁ったとき、距離を置きたくなった理由だ。
今年の釜ヶ崎夏祭りでも、翁長の遺志という言葉が運動体のアピールで踊ったり、慰霊祭に翁長を加えると言い出したとき(本田が言った)、沖縄コンプレックスから、真実が見えなくなっているのを感じた。
本ではわからない程度の痕跡だが、具体性の中で感じる。
正しいこと=弱者の味方をしなければならないというコンプレックスは、克服されていない。
道半ばだ。
もちろん、自分が差別抑圧する側だと自覚してない輩より遥かにマシ。
僕は沖縄のことでも4の話をしていることが多いのだが、1から3がわかってないように言われる反論が殺到して閉口する。
一方、差別抑圧する側としての自覚すらない人は、なぜか犬猫のことだけわかる人がけっこういるので、犬猫問題で、1から4までいけば、人間社会のこともわかるようになるんじゃないかと思う。
保健所に棄てられた犬を一匹でも殺処分から救うのは支援という。
食べるもののない人に炊き出しを行うのと同様に重要だ。
だが、それを繰り返すことは、解決ではない。
社会的構造悪を変えるしかない。
ペット業界も同じ原理だ。
殺処分の犬や猫に涙を流すけど、差別される人を生み出している人間社会の構造悪には鈍感な人は多い。
間はゆっくり繋いでいけば、切れ目はない。
ペット業界を変えないと、殺処分からの救援活動は、マッチポンプにすぎないとわかったら、
政治を変え、社会を変えないと、炊き出しも子ども食堂も、マッチポンプだとわかると思う。