プレミアムアリスで最初の記事を読むと、2019年1月13日のこの記事です。
というわけなので、明後日、1月13日に私はALIS参入1周年を迎えるようです。
私はALISを始めるにあたって特に何の挨拶もせず、いきなり過去の作品を貼りました。
この時点で既に郷に入っては郷に従えを破っていた可能性があります。(-_-;)
その後、断片的に自分のことを話しましたので、それらの記事を読んでくださった方にはだいたいの人物像が結ばれているかもしれません。
しかし、改めての自己紹介は特にしたことがありませんので、1周年にあたって、今さら、やってみたいと思います。
1960年大阪生まれ。
14歳の頃、極度の虚無感にさいなまれ、自殺の淵へ。
15歳のある日、恩寵のように訪れた最初の神秘体験で宇宙とひとつである自分を知る。
しかし、その後、その「境地」は見失われ、再び、虚無感に苛まれ始める。
なんとかしてもう一度あの状態を取り戻そうとして、ヨーガや仏教、瞑想やサイコセラピーの世界を知る。
高校を卒業したら、インドに修行に出ようとかと悩んだが、周囲の説得もあり、大学で仏教学を学びながら、インドは旅に出ればいいと「妥協」?
当時尊敬していた世界的な禅者、鈴木大拙がかつて教授をしていた、また親鸞研究の中心地のひとつである大谷大学に進学。
修士課程まで6年間、仏教学を研究。
その間に数々の旅をして、瞑想の師匠、バグワン・シュリ・ラジニーシ(のちのOSHO)にも会う。
修士課程修了後、愛と瞑想と旅の日々送る作家になろうかと思ったが、それだけで生計を立てるのは難しく、腰かけ(のつもり)で大阪府公立学校教諭となる。
恋愛したり、結婚したり、子どもがふたり生まれたりして、
作家収入では不安定なため、結局、教員は31年間続けざるをえなかった。
(めちゃ、はしょる)
2013年、心室細動で13分間心肺停止。(昔ならその時点で死を意味する。)
その間に臨死体験をする。
救急車のAEDで心拍だけは再生するも、呼吸は戻らず、人工呼吸、意識不明のまま病院に搬送される。
家族は「このまま意識が回復せず死ぬか、植物人間状態となります」と医師の宣告を受ける。
また、口腔からの人工呼吸は感染症にかかりやすいので、気道切開をして延命をはかるか、決断を迫られていた。
その気道切開のタイムリミットも迫る10日後、体が激しく痙攣し、自発呼吸を再開。
気道切開を免れ、ぼんやりと意識も戻り始める。
臨死体験の記憶があった。
その臨死体験は今まで読んだどんなものとも違っていて、
大いなる覚醒が全宇宙に染み渡り、同時にそれは不二なる清浄な光であるというものだった。
ぼんやりとした意識の中で、僕は「僕はまだ死ぬわけにはいかない。僕にはまだ世界平和のためにしなければいけないことがたくさんあるんだ」と譫言のように言ったと複数の友人が証言している。
が、自分自身はそんなことを言った覚えはないし、ふだん考えているわけでもない。
峻烈な峰を
霧に煙る
幽霊船が
風に吹かれて離れる
仄暗い蛹の中
細胞が溶けて
流れる
まだ濡れそぼった羽で
背中の殻を破り
Twice Born
金の指輪の
欠片(かけら)
のような
細い月
星集(すだ)く宇宙
無数の蛹から
蝶が羽化して
飛びたつ
地球と火星の間に
虹のアーチを架けて
渡っていく
無限の闇を
螺旋状に舞いながら
踊る蝶
銀河の桜吹雪
蝶たちは
地上の使命を終え
放たれる
空間と時間の尽きる
宇宙の果てで
光になる
たくさんの管につながれ、ベッドに縛り付けられていた僕は、はじめ、どのくらい回復するのか、まったくわからなかった。
もしかしたら、このまま寝たきりかもしれなかった。
しかし、自分は臨死体験で、これまでのすべての瞑想経験を凌駕する世界を知ったと思った。
なのでそのことだけは言葉に残さないといけないと思った。
それを知った友人が見舞いに録音機をもってきてくれた。
またそのうち僕は奇跡的に回復を遂げていき、やがてパソコンのキーボードを打てるようになった。
だが、低酸素脳症の後遺症として、どうしても転倒しやすいという症状が残った。
結論からいうと、僕には車椅子なしでの移動が危険であるという身体障碍が残った。
そのため、学校の教員はやめざるをえなかった。
けれども、運動機能の障碍以外の脳の障碍は奇跡的に小さかった。
脳の画像診断では、ほとんど損傷個所が特定できないほど損傷は小さかった。(13分間の心肺停止でこの脳の損傷の小ささは奇跡的だと医者も驚いていた。普通酸欠状態では脳細胞はすぐに死滅を始め、再生はしないと言われている。)
画像診断で損傷個所が特定できないため、僕は三日間も知能テストや心理テストを受診させられた。
わかったことは、言語能力はまったく衰えておらず、年齢平均100のところが、僕は130。
その他の知的能力はほぼ100ちょいで、運動能力だけが数値上は80の身体障碍のボーダー。
だが、転倒可能性が高すぎるため、身体障碍者手帳が必要というものだった。
僕はこれを天命と受け止めることにした。
つまり、特に歩行に関する身体障碍が残ったために、学校は危険であり、教員はやめざるをえない。
しかし、言語能力は平均以上に残存しており、指はパソコンのキーボードを打てる。
このような状態に投げ込まれたことの意味は・・・・。
教職は退いて、残りの人生を「書くこと」を中心とした表現活動に専念しなさいと
宇宙が託宣していると積極的にとらえることにしたのだ。