皆さん。
5月1日はメーデー。2日は忌野清志郎の命日でした。
そして、3日今日は憲法記念日ですね!
さて、敬愛する友人、安濃一樹さんによる今朝のfacebook記事です。
本人にALIS掲載の許可を得ました。
憲法の核心 安濃一樹
記念日の朝、憲法の前文を読み返していた。こころに憲法が書きつけられるまで、何度でも読み返し、憲法を生きたい。
研究者の解説は数多いし、前文の構成を丁寧に図解したものさえある。しかし、これらの参考書は前文の理解をかえって妨げる。自分で読まなければ、憲法の核心はわからない。
なにもむつかしくはない。だが、ひとつコツがある。英文草稿とあわせて読むこと。憲法は翻訳だからです。
▽ 国民と人民
たとえば前文では、the people を「国民」と訳している。これは外務官僚の草稿では「人民」とされていたのを保守派エリートの議員たちが嫌い、帝国時代には「臣民」とおなじ意味でつかわれていた「国民」を訳語に選定したものだ。
なぜなら「人民」ということばは社会主義や共産主義の文献によくつかわれていたからだ。そして、天皇ヒロヒト以下、保守派エリートはみな、共産革命を恐れていた。
わたしたちは臣民でも国民でもない。世界中の人びととおなじように人民です。
▽ 国家と人民
さらに、nation を「国家」と訳している。これも人民のことです。18世紀、理性の時代が建てた金字塔といわれる『百科全書』L’Encyclopédie の刊行がはじまったのは1751年。フランス革命がおわる半世紀も前のことでした。この『百科全書』が nation を、わずか23語で、定義しています。
“une quantité considérable de peuple, qui habite une certaine étendue de pays, renfermée dans de certaines limites, et qui obéit au même gouvernement.”
「特定の境界線に囲まれた特定の土地に住み、同じ統治権に従う相当数の人びと」
ここに書かれていないこと、意図的に省かれたものこそが大切です。民族がない、歴史がない、傳統がない、言語がない、宗教がない、文化がない。保守派が「国家」の属性として称揚するものすべてがない。
すなわち、民族や歴史・傳統・言語・宗教・文化などに規定されない個人のあつまりが人民でした。国家は人民そのものなのに、人民を「国家」と訳すとき、国家は人民とはことなる実体のように感じられる。保守派はきっとそうしたかった。
前文は啓蒙主義の政治的表現であるリベラリズムを継承しているので、nation は人民のことです。
.....and that obedience to such laws is incumbent upon all nations who would sustain their own sovereignty and justify their sovereign relationship with other nations.
all nations を承けている関係代名詞は who になっている。人民のことだからだ。
▽ 人類普遍の原理
わたしはこのようにして、原文を参照し、訳文を修正しながら読んでいる。すると、前文の核心がはっきりとわかる。もっともつよい重力はここにある。
「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」
Government is a sacred trust of the people, the authority for which is derived from the people, the powers of which are exercised by the representatives of the people, and the benefits of which are enjoyed by the people. This is a universal principle of mankind upon which this Constitution is founded. We reject and revoke all constitutions, laws, ordinances, and rescripts in conflict herewith.
government を「国政」と訳したために、意味が曖昧になってしまった。このセンテンスはリンカーン大統領のゲティスバーグ演説で有名になった一節に由来する。
....government of the people, by the people, for the people, shall not perish from the earth.
これは「人民の、人民による、人民のための政治は地上から決して絶滅しない」と記憶されている。誤訳というには気の毒だが、拙劣な訳のために、意味が曖昧になった。
まず、目的格の of を所有格と誤解した。つぎに、抽象名詞の government を「政治」と訳してしまった。
これは「人民が人民を人民のために統治すること」と訳さなければならない。つまり、民主主義のことだ。民主主義においては、人民が統治する。なにを統治するのか。人民を統治する。なんのために。人民のために。
nation の定義をもういちど見てください。
「特定の境界線に囲まれた特定の土地に住み、同じ統治権に従う相当数の人びと」
これが民主主義の源泉です。わたしたちは王侯貴族に統治されない。専制君主にも皇帝にも独裁者にも天皇にも大政翼賛会にも統治されない。わたしたちはわたしたち自身をわたしたちのために統治する。そうして、この領土と社会に共に生きる。
▽ こころの憲法前文
前文の核心はわたしのこころにつぎのように記されている。
「人民を統治することは人民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は人民に由来し、その権力は人民の代表者が行使し、その福利は人民が享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法はこの原理に基くものである。われらはこれに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」
民主主義は人類普遍の原理だ。これは普遍的な理想だということです。フィクションと呼んでもいい。まだ世界中のどの人民も本当には実現していない。わたしたちはこのフィクションを信じると決めた。理想は永遠の指針、遙かな星座である。
現実と理想の関係を見失うとき、恐ろしいことがおきる。理想を失えば、果てしなく現実に迎合してゆくしかない。民主主義を都合よく歪曲すれば、暴政がはじまる。人権という理想を否定すれば、弾圧が起きる。リベラリズムが破壊されるとき、虐殺がはじまる。
わたしのこころの憲法には天皇に関する一切の条文はない。天皇制は民主主義の理想に反するからだ。過激右派がなにを企もうと、人類普遍の原理に反する一切の憲法も法令も勅令も絶対に認めない。
だから、こころの憲法は、前文のあと、いきなり第9条からはじまる。