私自身の、いや私が滅した際の臨死体験については、これに詳しく書いてある。
今日未明、私は読み終えた『安楽死・尊厳死を語る前に知っておきたいこと』のレビューを書いた。
そこには実はパラドックスがある。
なぜなら私は臨死体験(証明は不可能だが仮説的には死後の世界)を「完全に解放された何の問題もない覚醒」として描いているからだ。
そもそも仏教は解脱=涅槃を「理想」としており、死して二度とこの世に輪廻してこないことを以て成道とする。
生死は苦であり、生死を超えていくことを救済ととらえている。
では「安楽死・尊厳死」はひとつの理想ではないのか。
実際に仏教には派によっては、瞑想状態のまま餓死することを成仏とする思想すらある。
しかし、私は『安楽死・尊厳死を語る前に知っておきたいこと』のレビューを以下のように書いた。
そこで私は「生きるに値しない生」という考えはどこから生まれてくるのかを問うのがこの書の眼目であると論じた。
その上で、臨死体験から生還した自分が、
どのような不如意な状態でも、
そしてどこまで回復するのか一切不明なままベッドに縛り付けられていても、
一瞬たりとも、「そのまま死ねばよかった」とは考えなかった経験を描いた。
死が完全な解放であることと、
自分の生が生きるに値しない生だとは一瞬たりとも考えなかったことは、
私の中では、なんの矛盾もない。
むしろ、それは実はひとつのことだ。
生死からの完全な解放を経験することは、
生きている間はその命がいかなる状態や条件下であれ、
あるがままで無限の価値を持つことに目覚める経験でもあったと言おうか。