古い観劇日記ですが、ブログから再録させてください。
2011.08.19
劇団金太郎飴公演「歌わせたい男たち」を豊中で見てきた。
君が代不起立を貫く拝島先生の来ている古びた茶色のジャケットや、髪の毛が寝癖で乱れているところなどの細部が、いかにもありがちな教師像で、リアルだった。
君が代伴奏という大事な(?)仕事をひかえてコンタクトを落とした音楽のミチル先生に、伴奏に必要なメガネを拝島が貸すか貸さないかという小道具の仕立ては効果的だったと思う。
メガネを貸すことは君が代強制の圧力に自分の手を染めることになる。しかし自分が手を染めなければいいというものではない。重要なのは、ひとりひとりの主体的選択が可能である社会を守ることそのものだろう。
劇は君が代推進派、反対派の主な主張をコミカルに紹介していくが、観客はどちらにも一理あると感じたり、どちらの肩にも力が入りすぎと感じて見守ることとなるように思った。この劇はアートであろうとしているのであって、プロパガンダであろうとしているわけではないから、わざとそのように演出しているのだろう。
売れないシャンソン歌手としての奔放な生活から、音楽の教師になったミチルの人生と、この場での選択の行方が、もともとのこの作品の見所であろう。と同時にアレンジによっては君が代反対派の拝島の位置づけが重くなるのだろう。
ラストシーン、拝島のリクエストに応え、シャンソンを歌ってくれたミチルの前に拝島はついに伴奏に必要なメガネを置いて去る。
なぜ拝島はメガネを置いていったのか。それは拝島の「君が代反対」という考えが、ミチルにとってもうひとつの抑圧となることに対して、拝島がノーを言ったことを表していると思った。
互いの人生をかけた思いを吐露しあったあとでは、最終選択は個々の魂に任されるのだ。(その吐露のプロセスを経ることは重要で、それを抜きにした相対化は、無思考で長いものにまかれる生き方に近づきすぎる。)
このラストシーンは、さてミチルはどうするのか?と問いかけたままのオープンエンドとなっており、その意味において優れた終わり方だ。最後に照明はミチルではなく、テーブルの上のメガネを照らしていた。それは登場人物ミチルの主体性を問うと同時に観客ひとりひとりの主体性問うて効果的だと感じた。
コメント欄
「歌わせたい男たち」とは誰のことか
abhiさん
ネット上での感想を見ていると「歌わせたい男たち」を君が代を歌わせたい与田校長と若手の片桐としているものがあった。しかし、女性音楽教師のミチルにとっては、君が代反対の拝島先生も個人的にシャンソンを歌わせたい男だと僕は思う。
女性の立場から見ると、すべての男が自分の歌わせたい歌を歌わせたがっているのだ。そのようにこの世界が成り立っているというのが、タイトルにこめられた世界観だと思う。
だからこそ、ミチルは自分が本当に歌いたい歌はどれなのかを自分で見つけなければならない。自分の本当に歌いたい歌を歌ってくださいという愛し方をしてくれるのはどの男なのかも、見極めなければならない。 (2011.08.20 23:53:18)
劇団金太郎飴演出の山口です。
山口正和 さん
ご観劇頂き、またご高評をありがとうございます。プロパガンダ芝居にしたくなかったことやラストの処理(ミチルからメガネへのスポットの転換ーメガネのスポットの輝度をFUll近くにまで上げてもらいました)など、私の思いを受け止めてくださってありがとうございます!
私共のブログhttp://blog.goo.ne.jp/nowar-nonukeもご覧ください。 (2011.08.23 10:12:57)