淡水という港町の歴史はそのまま台湾の支配者たちの交代劇の縮図である。
たとえば紅毛城は1629年にスペイン人が建てたサン・ドミンゴ城を前身とする。その後オランダによって改築された。さらに時代を下ると、清と貿易を始めたイギリスの領事館となった。
日本による占拠(注1)の時代、堆積した砂により港としての機能を落とした淡水から、日本は物流のための主要港を基隆に移した。
そのため、淡水はイギリス時代までの西洋支配の面影を残す街として現在に至る。現在は台北郊外の観光名所の一つになっている。
(写真を複数選んで一度にアップすると選んだ順番ではなく、ALISのレイアウトの都合で時系列にならないのがわかった。また同じスマホで撮影した写真でも容量の境界をわずかに越えたものはアップされない。システムの改善を望みたい。)
(注1)日本占拠と呼称するか、日本統治と呼称するかでは、台湾の中で日本による領有時代をどう見るかの歴史観の違いに繋がってくる。
2013年、台湾のある出版社が自社の高校歴史教科書で学習指導要領に基づく「日治」(日本統治)という用語を拒否し「日拠」(日本占拠)という用語を採用して論争を巻き起こした。出版社の主張では「日治」という用語は日本の統治を美化している。不当な占拠であったことを明示するためには「日拠」という叙述がふさわしいとする。
しかし、中国に対する台湾独自の歴史を重視する立場からは、蒋介石による台湾の武力占拠こそ「蒋拠」と呼ぶにふさわしい。一九九〇年代以降、民主化の進んできた台湾では中華民国ではなく台湾としての独自のアイデンティティを重視する立場から日本時代を「日治」という用語で呼ぶことが定着してきていた。
2013年になって、台湾のアイデンティティよりも、中国の一部としての中華民国を強調するという背景を元に、日本時代を「日拠」と呼ぶ教科書が現れたのは、いわば中華民国を重視する国民党寄りの勢力の巻き返しの一種である。さらにその背景には中華人民共和国の強国化とそれにすり寄る国民党という図式がある。
日本人として日本の侵略責任を重く見るなら「日拠」という用語を頭を垂れて受け入れたいところである。しかし、現在の台湾ではむしろ民主的な勢力が「日治」という用語を好むので、このあたりの事情は非常にややこしい。
この話を深く理解するためには、今回の台湾旅行で私が訪れた中で最も衝撃だった場所「二二八記念館」に触れざるを得ないだろう。
できるだけ明日、「二二八記念館」に触れよう。