こんにちは、LOLです。
アインシュタインの言葉から発想したのです。
『物心両面において質素で気取らない生活が、誰にとっても望ましいと思います。』
結局、ボランティアだろうが、仕事だろうが、人の善意を利用しているだけに過ぎない訳で、法だの関連機関だの、そういったものを頼るなど、働くだの、食べるだの、何らかの活動をすれば、善意の利用をしています。その代わり費用対効果で、お金を授受し、生きているわけですからね。授受をしないと、人は生きていけません。生きていくためには、善意を利用し、利用されなくてはなりません。その事実を知らなければ、一生働くという概念だろうが、生きるという概念だろうが、死ぬという概念だろうが、御馬鹿だろうが、エリートだろうが、お金をロハで貰おうが、皆一緒です。善意の程度だけを議論しているだけに過ぎない。人間そんな事言い合って、善民ばかりですが、基本的に殺そうとする人間は悪だという論調もどうなのでしょう?殺そうとする人間は、殺した対象にとっては悪でしょうが、殺して刑に服役して、貢献しようとする姿は、善民でしょう。トータルの話全員、生きている限り善民のような気がしますね。私にとっては。ただ私の利益を考えない、という思考でしょうし、利権が絡んできますので、一概に善か悪か考えるには、最も良い議題でしょうが、きっと全員利権を一方的に享受するのは悪という思想なのでしょう。非常に心が清いのでしょうが、きっとお花畑なのでしょうね。頭の中はフラワーが咲き誇っています。消費をするという行為は善意と利権の授受なのですから、後は、どこまで利権を得たかという主張をひたすら皆で主張しあう、下らない大会になってしまうのでしょう。そんな様子ばかりしているから、きっと働くという主張すらさせて貰えない社会も出来上がったのでしょうし、そのような行為も無視される『大人の身勝手な理屈』を一方的に聞くというのは、就職活動なのでしょうね。だって君利権を得るだろう。だから、地位の高い人間の言うことをただ一方的に聞かなくちゃならない。
そのような心の声が身勝手な理屈で、就職活動はなされています。アインシュタインは、そのような大人の身勝手な理屈を肌で感じているのでしょうか、防御のためでしょうか。あるいは、何なのでしょうか。質素である原因は、質素な生活をしないと一生分の生活をトータルとして算出しても経営が苦しいためでしょう。それを主張せず、自身も『どん底』に落ちている方が清いなどと武士はなんちゃらみたいな諺みたいな、格言を平気で語るのはどうしてでしょうか?
その答えは、産業革命の発達速度と省エネルギー概念に囚われた高効率的な回答に委ねられます。
高効率的な省エネルギーを考えるならば、仕事で確かに貢献をして、利益や利権の錯綜する世の中を掻い潜り、省エネルギーで利益を享受できる製品を買うべきでしょう。今の現代であるならば。
産業革命時代では、そうはいかないのです。常識は通用しません。ある程度発達した、歴史背景を鑑みても、未だ発達していないのか、と考えさせられる格言です。私はそこに注目したのです。
なぜならば、産業革命時代、石炭の消費、電気の発明など、生産性対エネルギー消費の割合のエンゲル係数的な概念を取り入れれば、おそらく負の相関を持つでしょう。
未だ、現代の社会は、消費を減退させる志向にあります。それは何故でしょうか。ここまで発達していた要因を鑑みれば明らかです。それはサービス生産者の利権でしょう。それしかありません。その利権の奪い合いで、ひたすら、意味の無い空虚な競争は続いています。
だからアインシュタインは、必要なサービスだけを享受しなさい、己は理性があるだろう、と諭しているのだろう、と察しました。いつの時代だって、代わりはしません。
結論、御馬鹿にも謙虚な姿でウィットに富んだ知的な人物だったのだなあ、と改めて感じます。
とても尊敬できそうな方ですが、私生活はどうだったのでしょうか?
何に思考していて
何のサービスを得て、
何の生活に勤しみ
どこへ思考は流れて行ったのでしょうね。
どこへいき、どこへ流れるのか。
レオナルド・ダヴィンチの格言を想起させます。
以上、ampouleならびにLOLでした。