
さて、晴耕雨読という言葉が似てもつかないほどに秋らしくない秋になりました。今回は、最近思う自由と現実というテーマに沿って自業自得に関する記事を少し書きます。

まずもって自業自得とは何なのか?それは辞典通りに理解するのではなく、話し言葉的に理解すると「うまくやれていない原因」の一つに過ぎないのかと思いました。
たいていの場合、その人の人生がどうなろうとどうでもいいでしょう。うまくいっていない場合のセーフティーネット、それが何かはわかりません。もしかしたら誠実に生きることなのかもしれませんし、リスクを負って行動することかもしれません。何がうまくやるためのキー行動なのかは多様ですが、それが「ある」前提で話すと出てくるのが自業自得なのでしょう。
そもそも、風俗ではたらいて子供ができなかった、はい自業自得です。というのはなんだか意味不明に思える。どういう意味で意味不明なのかといえば、なぜいろいろな事象があるにもかかわらず風俗で働くこと、そしてその結果が自業自得で悪いこと、マイナスなイメージになるのかです。
もともとこうありたい、これが正解であるというのがわかっている場合、真っ先にそれを行えばいいことです。しかし、明らかに不正解なものに時間をかけている、その結果、〇〇という人ができる、というストーリーの結果が自業自得というわけですから、ある意味であとだしじゃんけんのようなものです。
確かに、間違いに近しいことを行っている場合、それが本当に悪い結果をもたらすことは少なくありません。例えば、高速道路で逆走したら、どんな豪運の持ち主でも死ぬ確率は上がるでしょうし、毎日発がん性リストのトップグループにある要因を片っ端から当てはめるように習慣化していたら、本当に癌になるでしょう。はたまた、人を呪えば穴二つ、という言葉通り、呪われることもあるでしょう。
しかし、それはあくまで明らかにやばいことをやっていた場合の結末であり、あきらかにやばいことをやっていなくても自業自得の対象になることがこの世の中にはあふれています。ただ、それを「教育の結果」とするのか「過程」とするのかに大差はないでしょう。つまり、悔い改めても絶望しても大して何しても意味はないということです。
なので、別段ここで自業自得の対処法は、今日までを反省することだとは言いません。どうせ人は変わらないでしょうし、世界最高の反省をかましてもまた反省することになるからです。ただ、自業自得というのはアクセサリーのようなもので、きらめいたりきらめかなったりする刃でもあるということだと思いました。










