現代に生きる我々にとって、子孫繁栄は何よりの達成目標になっているかもしれない。
しかし、それは時に間違いな可能性はないだろうか?
別段、なぜ子孫繁栄をする必要があるのか、もう一度考えるべきなのかもしれない。最近思うことは、お金や子孫繁栄など、重要なものだとされてきたことそのものに対する意識を変える必要があることだ。
お金や子孫繁栄は、一見すると、お金は稼ぐもので、子孫は残すものだという考えが多いかもしれない。しかし個人的には、別にお金は便利な道具の一つ、いいかえればテクノロジーであり、子孫は反映させるべきものかどうかも危うい。
そもそも、なぜ子孫を反映させるのかといえばお金を稼がせるためであり、それによって自分の生活が楽になればいいと思うからであるだろう。最初に断ると、別にテクノロジーがあったからといっても、生活が楽になるとは思わない。しかし、最終的に子供を産む目的が、自己満足か自分の生活を楽にするかのどちらかの場合、それはある意味で本当にやらなければいけないことなのかを、神話レベルで再考すべきである。
神話レベルとはどういうことかといえば、そもそもなぜ人類は、とかいうスケールになっている可能性が高いからだ。別にそのスケールになっていることを自慢したいわけではなく、最終的にそういったスケールの話に自然になっている可能性が高いからそう言っているだけである。
そして、お金はテクノロジーでもある。なぜなら、最初お金というのは物々交換を簡略化することが目的であったとされているからだ。ちなみにこれもある意味でこじつけだが。金などの価値があると断定されてきたものは、それがどういう使われ方をするかどうかにかかわらず、価値があったわけだからどうにかして、金を運び出していけばいろんなものと交換できたわけである。しかし、それはある意味で不便でもある。いちいち価値のあるものを欲しいものの場所にもっていかなければならないからだ。もしも、それが数十メートルならばいいが、宇宙空間をまたぐ価値交換だったら、もはや価値もくそもなくなる。
しかしお金という価値を保存できて交換できて、勘定できるものがあれば宇宙ですら価値を共通できる。
そういう意味ではお金はテクノロジーであり、ある意味では核爆弾と同類である。そんな核爆弾を誰でも持てるわけなのだが、問題はそれが中央集権であることが悪いかどうかという問題を提起していることだ。
最近では分散型金融という言葉が経済界を跋扈しているが、この分散型金融は、果たしてどんな結末を人類にもたらすのか、これは非常に興味深いものでもある。
テクノロジーである金を、どうやって使うかというのは、それをどうやって稼ぐかと同等かそれ以上の重要性を秘めている気がするのだ。
もしも、とんでもない適当な人間が核爆弾のスイッチ係を任されたら誰でも引き留めるだろうが、それと同じようにとんでもない人間が大金を独占していることは非常に問題でもある。なぜならば金は、使い方も稼いだ時と同じくらい重要だからだ。稼ぐのだけがうまいというのは、大学に入るまで頑張るけど、入った後は適当でも卒業できるのと同じだ。
それでは、大学の意味はない。同じようにそれでは稼ぐ意味はないのである。