忙しいくなればなるほど、それにこたえなければならないと思う人がいるだろう。しかし、実際それを行う必要は全くない。なぜなのだろうか。
それは最初忙しさを欲した自分がどこかにいるからだ。何も持っていない上に暇だった時を思い出せば、なぜ今忙しいのかわかるかもしれない。しかし、今という現実を生きている中で、過去の焦燥や欲望を思い出すことはないだろう。
これは例えば何か欲しいというものでも同じことが言える。基本的に欲望の打ち消し方は二通りある。一つは欲望に流されることだ。欲しい家電があったら買う。欲しいパソコンがあったら買う。これは欲に流されることで消化される欲望である。
一方でもう一つは欲望の逆を行くことだ。どういうことかといえば、プラスの欲求に対して、マイナスの欲求をぶつけ消滅させることである。何を言っているのかわからないかもしれないが、この方法をとることと、前述した一つ目の方法をとることの違いはゼロであり、どちらも最終的に欲望を消化したということだけが結果としてのこる。
例えば、パソコンが欲しいという欲望があれば、パソコンが要らないという欲望をぶつける。パソコンが要らないという欲望などないと思うかもしれないが、すでにパソコンを持っている人ならば、もういらないし売ってしまおうと思うだろう。そして、なぜ要らないのかを考を経てそれに至ったわけだが、要らなくなった理由を欲しているときに想像すると、もはや欲することはなくなる。
それはまるで、ひとつの世界線、可能性を打ち消すような行為に見えるかもしれないが、欲望に答えても答えなくても世界線や可能性は生まれ続ける。何もしないのもまた正解というのは、どうやって否定することができるのか。もしもそれが否定出来たら、買うか買わないかという悩みはないはずだからだ。
それはまるで、忙しい渦中にある人々を見たときに思うことでもある。あなたが今忙しいのは、自分でその方向に突き進んだからである。そもそも、忙しいというのは幻想であり、やらなくてもいいこととやらなければならないことというのは勝手に自分で決めつけているに過ぎない。そんなわけがないと思うかもしれないが、そんなわけがあるのである。