目次
・コロナ危機の今こそ信頼できるメディアが必要だった
・信頼できる記事とユーザー
・サービスとしてできる信頼の可視化
・評価軸が問題になる
・信頼の可視化をして何をしたいのか
・人とのつながりをなめらかにするとは
・ALISの発想の原点
・そもそも"信頼"とは何を指しているのか
・ALISの考える信頼の可視化
・「いいね」から算出するアルゴリズムの限界
・人とのつながりをなめらかにする新しいアプローチ
・おわりに
-- 本文は編集長のまとまりのない頭の中を書いた駄文です。 --
今のALISが信頼できるメディアとしての独自性を試行錯誤するには、コロナ危機の今はチャンスだったように思う。
人々はコロナの情報を求め、日本中、世界中でコロナに関する情報が飛び交った。どれが正しくて、どれが間違ってるのかわからず、不安になり、人々は情報の波に溺れた。デマのせいで本当にトイレットペーパーが品薄になったり、納豆が食べられなくなったりした。
新聞もテレビも本も、この世の情報すべてに絶対的な正しさはない。統計などデータですらそれはある思惑の中から生み出すことが可能である。
目の前にある情報をそのまま受け取るのではなく「本当にそうか?」と基本的に疑うくせがあると、情報に隠された嘘や、その情報によってどういう風に思って欲しいのか、発信側の思惑が見えてくる。そういうものが見えてくると、目の前にある情報に騙されず右往左往することが減るだろう。
そんな曖昧な情報が溢れる中で「じゃあ何を信じたらいいの?」となるだろう。そんな時に自分で調べる力がある人は自分で調べるし、調べる力がない人は、もしかしたら目についた間違った情報を簡単に鵜呑みにするかもしれない。
先ほども話したように絶対的な正しさがない中で、結局「信じるか信じないかはあなた次第です」ということに行き着いてしまうのだが「どうやら確からしい」みたいなところまでは、情報を追うことが得意な人ならできるはずである。(それも絶対的な正しさにはならないが)
それらを結集して、せめてこのALISコミュニティ内において、この話は嘘っぽいとか、これは確からしいといった信頼の可視化ができたら、今ALISを見向きもしない人たちが信頼できる情報を求めてALISをみるきっかけにもなるのではないかと妄想した。
しかし、ある事象についての確からしいソースをALISユーザーで寄せ集めたとしてもそれが確からしいと判断できる人がいない限り難しそうだなと結論に至った。
どこ大学の論文といってソースにあげたとしても、それが本当に確かと誰も確証をもって言うことができない。専門家の間でも意見がわかれているような事柄について、ALISユーザー間で結論を導いたとしてもそれは"完全に"信頼できる情報になることはない。
こういう世界的な危機な状況においては、これが正しいとALISという狭い空間の中で結論を出すことは、むしろ逆に危険かもしれない。誰もが間違った情報を信じてしまった経験が一度はあるでしょう。善意で教えたつもりの情報が実は誤りだった時に、素直に誤り訂正し、周りの人もそれに対して冷静な反応ができる土壌ができていないコミュニティにおいては、それがどういう方向に動いてしまうかわからない。
みんながセンシティブで人に優しくなれない時期は、何か失敗した人や間違いをした人を責めたくなる。こういう時は人が人を間接的に殺しかねないリスクもある。
(全てのユーザーが心が整い悟りをひらいてるようなお坊さんコミュニティだったら可能なのかもしれないが... むしろそういうコミュニティになることを目指すべきか...)
それでもごく小さな事象であれば、ある程度の「確からしい」くらいまでは導き出せて、それで誰かを救うことはできたりしないだろうか?
もしくは「確からしい」まではいかなくとも「あくまで自分が見た情報」という前置き付きで情報を提供し、特定の地域の情報を発信することで誰かを救ったりもできたのではないだろうか?という思いがぐるぐるとする。
全てが例えば、確からしいまでの結論に至らなくても情報を集約させることなどはALIS内でもできたことかもしれないと考えてしまう。
あくまで絶対的な正しさはないという前提を共有した上で、確からしいまでの結論に至らなくても情報を集約させ、ユーザー間で評価し情報を整理することくらいはALISでもできたような気もするし実験するなら今だったかなとも思う。
そんな考えを1ヵ月以上前に思ったが、大きく動き出すには私の空き時間が足りなかった。
東京都はそういう情報発信用サイトのオープンソースを公開したし、各市区町村でも、それを使って独自でサイトを立ち上げて情報を発信する様子も見られた。このあたりでALISを使ったそういうプロジェクトを立ち上げることを諦めた。
結局のところ、そのプロジェクトを立ち上げたとして、情報を集めるなんてめんどくさいことを誰がやるんだろうか?とも思った。実際にALISにコロナ情報を集約させる発想の発端は、情報を追いかけるのが面倒だし、どっかにそれなりに確からしい情報がまとまって都度更新されるようなものがあったら楽だなーという私のズボラな性格からだった。
情報収集能力がある人は自分で集めるし、わざわざそれを他人に与えるというのは難しいかもしれない。本当に困っている人の悩みはそれぞれなので、それらひとつひとつを救うよりは、曖昧な情報が錯綜するなかで自分でどうやって確からしい情報を探し出すかという方法を教えた方がよっぽど有益に思えてきました。(もちろん規模にもよる)
一人一人がただ発信するよりは、何かみんなで一つのものを作りあげるみたいな発想は面白い気がするので今後も模索したい。
お題の「信頼できる記事」とかぶる部分があったとは思うので、結局なんの行動も起こせなかった私の頭の中を自省も込めてツラツラと書いた。お題の「信頼できる記事とユーザー」についても少し思考する。
これは結局、自分が信じるか信じないかあなた次第ですという話に戻ります。
権威ある人、インフルエンサー、医者、先生が言ってるから信頼できるということはない。みんなが信頼してるから信頼できるということもない。何度もいうが、この世に正しさはないのである。データも数字も嘘をつけます。
サービス内での「信頼の可視化」には基準が必要になる。
食べログの評価があてにならないのと同じように、匿名のユーザーにその評価をさせることには問題がある。ALISのように電話番号認証である程度制限された状態だとしても、その評価があてにならないということは評価軸によっては十分起きてしまう。
ALISの目指す「信頼の可視化」というのも、どこまでいってもある基準軸にそって可視化せざるを得ず、その基準が万人が納得するものになるとは限りません。
例えば、よく忘れ物をする人、よく遅刻をする人は、信頼できないという基準が設けられたら、そういう人たちはALISの世界では信頼に足る人間ではないと評価されるかもしれない。これは別に「信頼の可視化」を否定しているわけではなく、本質的にはそうなるということです。
真面目であることに価値基準をおけば、冗談をよく言う人の評価は低くなるでしょう。何を基準に信頼に足るかを判断するのはとても難しいのです。複数設ければ良いという話でもありません。無限に評価ポイントがあり、それらが複雑に絡らみあうことに気づくでしょう。人間というのは数値で表せるほど単純でもないし常に一定でもありません。
そもそもALISは信頼の可視化をすることで何を目指しているのでしょう?それがわかると絶対的な正しさがない中でもALISにおいての評価軸の決め方や、可視化の方法が見えてくるかもしれません。
ALIS代表の安さんはインタビュー記事で「僕のVisionは信頼の可視化で人とのつながりをなめらかにする」ことだと述べています。
つまりALISの「信頼の可視化」の先にあるのは「人とのつながりをなめらかにする」ということになってきそうです。ならば、それに適した可視化の方法を模索することができます。
人とのつながりをなめらかにするとは、一体どういう意味なのでしょうか?
「知らない人と繋がる」ということを意味するならば、ユーザーに対して複数の評価軸(制限を持たせるならアピールしたい軸など)をユーザー側が設定すれば、趣味嗜好のあうユーザーをマッチングさせることは可能かもしれません。
「トラブルなく人とつながる」ということを意味するなら、嘘つかない、約束を守るみたいな項目が評価軸になってくるかもしれません。
(これらは記事というより人に結びついた評価軸かもしれません)
「人とのつながりをなめらかにする」というのがどういう意味なのか、まずはALIS安さんが考えをしっかりと理解する必要がありそうです。
インタビュー記事を読んでいくと、ALISの発想の原点になった背景が語られています。一部抜粋します(詳しくは記事を読んでください。)
資本主義、人的主義、社会関係資本があったときに、僕は社会関係資本が人の人生の豊かさを圧倒的に顕してくれると考えています。これをもっと今までなかったような形で提供していけないかというのが、ALISの発想の原点です。
※社会関係資本とは:「幸せ経済社会研究所」の記事がとてもわかりやすかったです。
つまりそういった社会関係資本をALISの中で成立させたいと考えているということになります。これは私が前段で話した「一人一人がただ発信するよりは、何かみんなで一つのものを作りあげるみたいな発想」と少しかぶる気もします。
つまり、やはり今こそALISはユーザー間が協調し合う流れを作り出すチャンスだったのでは...?(しつこい)と自分の提案が芯食ってる気がして自画自賛になりそうな自惚れた気持ちを抑え、言うは易しで行動が伴えなかったことを自省し再び思考をすすめましょう。
ダラダラと思ったことを書き留めていると、そもそも私は「信頼」という言葉の意味をわかってるのかすらよくわからなくなってきました。「信頼」と「信用」の違いも明確に話せないことに気づきました。なんとなく、信頼 = 信憑性のようなニュアンスでずっと捉えていましたが、何度も積み重ねて獲得するモノといったニュアンスが本来の意味のような気がして、であると私のアレコレ書いてきたこと、言葉の違いを知らない恥ずかしい発言になってるかもしれません。
信用:その人の過去の実績や功績に基づいてその人のことを信じること
信頼:これまでの関係性や、将来性に期待してその人を信じ頼ること
ALISチームが考える信頼の可視化について調べてみた。
古い記事だが「ALISの信頼性可視化ロジックについてのサブノート」というものをみつけました。
以下「ユーザー信用度のロジック」の引用です
1.トークン保有量と信頼ポイントからユーザの信頼度スコアを算出
2.信頼度スコアの高いユーザーから受け取った「いいね」は、信頼度スコアが低いユーザーからの「いいね」よりも信頼ポイントが多く貯まる
3.信頼ポイントは自分の投稿が受け取った「いいね」数だけではなく、他人の投稿への「いいね」数から算出される
他者の投稿への「いいね数」からもユーザー信頼ポイントを獲得できる点がALISのユニークポイントになります。これは「いち早く良質な情報を発掘した人」のセンスに対する報酬となるため、将来多くのユーザーから「いいね」を集める投稿に対して早く「いいね」を押した人が多くの信頼ポイントを獲得します。
* 連続して行ったいいねは無効になります。
以上に述べたロジックを用いてユーザーの信頼度スコアを可視化することで、人々が信頼できる記事と人々にいち早く出会うことを可能にすると考えています。
センスに対する報酬面白いですね。
この説明を見る限り、ALISがいう「人とのつながりをなめらかにする」と言うことに対して「 人々が信頼できる記事と人々にいち早く出会うこと」というアプローチを考えているようです。
"前提として唯一絶対なアルゴリズムはないと考えています"と述べている通りこれは現在すでに変わっているかもしれません。ただ現在も「いいね」というものが大きな軸になっていることに変わりはないでしょう。(私の想定していた人に紐づく評価軸というよりは記事のみに紐づく評価の話に収まっています。)
そもそもこのアプローチはあっているのでしょうか?
「いいね」から信頼度を算出するアルゴリズムは、いくらでも考えることができますし、常に改良していけばよいと思います。ただ読み手が減っている今のALISの現状を見る限り、人々が信頼できる記事に出会えていない、もしくは人々はそもそも信頼できる記事といち早く出会うことを欲していない、ということになります。前者であればアルゴリズムの見直しは行えばいいだけですが、後者であればそもそものアプローチを変えなくてはいけません。(信頼できる記事がないという可能性もあります)
「いいね」という指標のみでこの状況を脱するには限界があるかもしれません。ある程度のことはできたとしても限定的なスケールの話になってしまいそうです。
またこのロジックをそして、そもそもその方向性がALISの目指している社会なのか?ということを今一度見直し全く別アプローチを考えてもいいかもしれません。
もし、いいねのロジックや投げ銭のロジックを改良し、それが数値化されたとしても、それはもしかすると"信頼"ではなく"信用"の可視化になってしまうのではないでしょうか?単にその人の過去の実績をみることは信頼というよりは信用も気がします。
"残念ながら人生は、その人の生まれてきた時の初期状態で多くが決まってしまうのではないかと思っています。"という安さんの感情、この状況を変えるには人の過去(書いた記事)を単に数値化するだけでは状況を覆すことができないのかもしれません。
極端に言えば、信用できる記事に出会えても、それを書いた人が信頼できる人かどうかはわからないということなります。
現在ALIS内で本当の意味で人との信頼を築こうとすると、記事でアピールするか、コメント、投げ銭をするあたりでしょうか。そこに何か信頼を築く新しいアプローチがあっても良い気がします。それは要素の追加といった大きな改修から、体感を変えるデザイン的なアプローチでもいいかもしれません。これについての革新的なアイディアがないかは別途妄想を続けていきたいと思います。
今ALISは個人個人が好き勝手に記事を書いています。それが同じ目標を向くように仕向けて協調する力を先導するアプローチも良いかもしれません。お題がおそらくそれに近いアプローチですが、現在あまりワークしていません。みんなの主義主張を強制的に見せるためにもしかすると文字数制限させて強制的に目に入れるとかもいいかもしれません。(ただ極端に注意を惹きつけるのは争いの火種にもなりやすくバランスが難しい)
自分のなかで「信頼の可視化」ということについて、なんとなく中国の「信用スコア」みたいなものを想像していて、信頼の可視化が進みすぎた社会というのは、全国民が全国民を監視するような国民総監視社会のようなものなのかと少し思っていたのですが、今回のお題を機にALISが目指している社会像について改めて確認できて良い機会になりました。
以上、徒然なるままに頭に浮かんだことをなんの推敲もせず書いた駄文でしたが、最後までお読みいただきありがとうございました。
(どうでもいいけど、カテゴリーの設定って悩みますね。)