1997年の香港返還のあたりに制作されたと思われるファミコン用のゲームがあった。
ファミコン用というのは記憶違いで、スーファミだったかもしれない。
起動すると、中国語で「大陸から汚らしい奴らが押し寄せてくるから撃ち殺せ!!」みたいな内容の文章がでかでかと表示される。
とはいっても、中国語なので正確なニュアンスはよく分からない。
ゲームの内容は、どうということのない縦スクロールシューティングゲームだった。
でもボスキャラが鄧小平の顔の画像だったりした。
もちろんこんなものを任天堂が許可するわけがない。
任天堂のハードウェアで動く正規のソフトとして流通させるには、任天堂とのライセンス契約が必要だった。
任天堂という民間企業が規制をしているわけだ。
俺はこのゲームをエミュレータで (つまりはPC上で) プレイしただけだが、香港ではROMカセットとして物理的な商品が流通していたのかもしれない。
WEBで検索すると、クーロン黒沢が関わったという『香港97』というゲームの情報が大量に出てくるが、これだったような気もするし、これじゃないような気もする。俺がプレイしたものは、日本語の文章は表示されていなかった。
香港はアジアの中では民主的だったし、イギリスは、まあ少なくともアメリカよりは紳士的だった。返還されてしまったら自由を奪われるとして大きな危機感があった。
香港返還は、独立派にとっては「せっかく独立するチャンスだったのに」というのもあって、香港返還ではなく香港陥落と呼ばれることもあるようだ。
任天堂の許可を得ていないゲームといえば、日本ではハッカーインターナショナルが有名だ。
ハッカーインターナショナルのゲームもたぶんエミュレータでプレイしたことはあるが、ゲームとしてつまらなすぎてよく覚えていない。
でも俺が知らないだけで、ゲームとして面白いものもあったのかもしれない。
無許可のものは任天堂から提供される情報がないので自力でハードウェアを解析する必要がある場合もあった。
自力で解析していたのは弱小の制作チームだけでなかった。スクウェアも自力で解析していた。
スクウェアが、というか、ナーシャ・ジベリがオフィシャルの情報にないハードウェアの奇妙な挙動をガンガン利用してプログラムを書いていた。
FFシリーズがグラフィック面でリードし続けていたのは、スタッフがナーシャ・ジベリの背中を見ていたからだ。
ポケモンの田尻智 (のチーム) なんかも、もともとは任天堂のオフィシャルの情報をもらえない立場で自力で解析していた。
ゲームのグラフィックといえば、俺の中で『Wipeout XL』(海外でのタイトルは『Wipeout 2097』) が最後の感動だ。
あれ以降、綺麗だと思うことはあっても、グラフィックで感動というのはしていない。
『Wipeout XL』の8Kでのリメイクがやってみたいと、ずっと思っている。
あのゲームは、5つめのコース (舞台はフランスという設定) がとにかく強烈だった。
ゲームバランスはほぼそのままで、グラフィックだけが8Kになったもの (できれば8K×3画面) で、あのコースをもう一度走ってみたい。ゲームバランスが素晴らしかったものの、オートパイロットが無いモードというのがあってもいいとは思う。オートパイロットはあまりにも強力すぎて、レースゲームとしての楽しみを削いでしまっているような気がした。
ちなみに『WipEout Omega Collection』がどんな感じになってるかは知らない。今のところPS4を買う予定はない。
Wipeoutシリーズの産みの親であるシグノシスは吸収されてスタジオリバプールになり、それももうなくなっているようだ。
そういえば2010年ごろに、株式会社コトはもう存在していないと思っていたが、全然そんなことはなかった。別の会社とごっちゃになっていたようだ。
大企業が提供するハードウェアとそのハードウェアで動くソフトを作るためのライセンス契約、という形態は少しずつ過去にものになりつつあり、例えばハードウェアを選ばないSteamは一大プラットフォームになった。
Steamは2016年4月からビットコインでの支払いを受け付けていたが、2017年12月にやめてしまった。また再開するのかは知らない。
それにしても、数年前までは、ゲームの有料配信がこんなにうまくいくとは予想していなかった。
ネットでのゲーム配布といえばエミュレータの無断の配布だった。
一時期よく配布サイトでは「ソフトを持っている人だけダウンロードしてください」みたいな注意書きを見かけた。
なぜこんな注意書きがあるのかといえば、ソフトそのものを持っている人ならどうせ自力でデータを吸い出すことができるわけだから、違法性は低いだろうというわけだ。
俺は結局、WEB経由で一度もエミュレータのデータをダウンロードしなかったかもしれない。
いつの間にか、ほとんどゲームをやらなくなっていた。
でも最近、Steamはちょっとやってみようかとも思っている。
そういえばもともとプログラミングを始めたのも、ゲームのためだった。
かつてはあれだけゲームに対する情熱があったのに、今はない。
失って、はじめて、気づくもの。
たとえば、自由。
それにしても、自由とはいったいなんだろうか。
仮想通貨が話題にのぼることが増えるにつれ、「右か左か」よりも、「リバタリアン的かどうか」に注目が集まるようになった。
おそらく、俺の発想というのは。
リバタリアンから見れば、弱き者を助けすぎていて、富める者から財産を「没収」しすぎている。
リベラリストから見れば、強き者に力を与えすぎていて、弱き者を直接的に支援することに消極的すぎる。
だいたい以上のような感じになりそうである。
こう書くとまったく整合性がとれていないようにも見えるが、なぜこのようになるのかというヒントとして、寄付とボランティアをどのように捉えるかというのを考えてみればいい。
俺にとって寄付とは、弱き者を直接的に助けるためにあるのではなく、才能あるものを支援するためというのがメインだ。
また、ボランティアについても、「みんなでゴミひろいをしましょう」みたいなのはあまり興味がない。
たった1人の才能ある者がそのアイディアによって劇的に解決することを期待しており、そのたった1人が収益性のないプロジェクト (=ボランティア) に専念できるようにしたいというのがある。その人が安定して「無職」でいられるために寄付があるのである。
もちろん、あくまでもメインがそうだというだけで、酔っぱらいのホームレスにカンパしたこともあるし、本当に面白そうだと思えば「みんなでゴミひろいをしましょう」みたいなイベントに参加する日が来るのかもしれない。
俺はすぐ部屋を散らかすほうだし、ゴミそのものにはたいして不快感を感じることもないが、沖縄に来てから一度だけ、ある場所でなんとしてもここのゴミを拾い集めたい、と心底思ったことがある。ちなみに本島ではない。
ところで俺は沖縄はいずれ独立したほうがいいと思っているが、軍備放棄したほうがいいと思っているわけではない。沖縄が独立して、極東版NATOができたほうがいいと思うからだ。そして極東版NATOを作るなら、沖縄を本部にする以外ありえないのである。
沖縄では米軍を追い出すかどうかばかりが焦点になって話が進まない。極東版NATOを作って、米軍と連携すればいいのである。
「極東版NATOを作るなら当然日本を本部に!」と考える人も多いが、そんなことできるわけない。
ドイツやフランスもこの数百年でいろいろやらかしたから、EUやNATOの本部はドイツやフランスには置けないのである。
また、沖縄は空手発祥の地であり、「空手に先手なし」という哲学もある。
独立といえば当然、通貨をどうするのかというのは大問題だ。
独立派の野底武彦 (野底土南) は沖縄出身者では初の公認会計士で、金本位制を支持していた。『どうすれば通貨不安は解消できるか』なんていうタイトルの本も書いている。
もし野底武彦が生きていたら、仮想通貨をどう思うかというのは興味のあるところだ。
これは「バッハが現代に生きていたら」よりは現実的な仮定だ。
生前の野底武彦を知っていた人を複数知っているが、みんなバラバラのことを言う。野底武彦は多面的な人だった。
野底武彦が生きていたらそれを歓迎しないのかもしれないが、今もし沖縄が独立したら、スイスやリヒテンシュタインのようにブロックチェーンに詳しい人材が集まってくるだろう。
今はもうすでにブロックチェーンには膨大な数の人間が関わっているが、もともとは1人から始まった。
サトシ・ナカモトは1人ではないという説もあるが、とにかく少数の人間からスタートされた。
何か新しいものが革命的な影響を及ぼすようになるといつもそうだが、ブロックチェーンが話題になれば「次のサトシ・ナカモトは誰だ」というようなことが言われるようになる。
でもこの「たった1人」をあらかじめ抽出するのは不可能である。これは長い時間が経ってようやく「ああ、あの人が、そうだったのだ」と分かるものだ。
同時代に騒がれていたとしても長い時間が経つと、別に大したことないんじゃないかということになったり、ただの山師なんじゃないかということになる。
この、時間を必要とするという側面が、若い人がイノベーションを身近のものと思えない要因の一つかもしれない。
今の日本でも、「イノベーション」という言葉を聞いた瞬間にもう自分には関係ない話だと捉えてしまう人が多いように感じる。
プログラミングを学ぶということについても、「このたった1行のコードが世界を一変させるかもしれない」というような感覚を持つ人は非常に少なく、稼げるかどうかとか、「就職」に有利かどうか、といったことばかり考えている人が思いのほか多いことに気づいた。
新しい技術に関することでも、せいぜい「実はこの人、仮想通貨を10億円くらい持ってて、突然私にプロポーズしてきたりしないかな」みたいな夢想がメインのようだ。
実際には、同年代の異性をランダムでピックアップして、その人が仮想通貨を10億円くらい持っててしかも突然あなたにプロポーズする可能性というのは極めて低いだろう。
自分のすぐ近くでゲップをしたりオナラをしたりしている人がイノベーションのタネを持っているかもしれないというのは、なかなかイメージしにくいようだ。
誰が言い始めたか知らないが、「人は誰でも一生のうちで一曲は名曲がつくれる」という。
それを言うなら、「人は誰でも一生のうちで一つはイノベーションのタネを思いつく」というのもまた真実だろう。
ただそのほとんどは、重要性を本人すら認識することなく、忘れ去られていく。
ではなぜイノベーションのタネは発芽しないのだろうか。
イノベーションを育むには規制緩和が重要だと、よく言われる。
それは本当なのだろうか。
まず、規制には量的な規制と質的な規制がある。金融緩和の話ではない。
量的な規制でイメージしやすいのが法定速度である。
法定速度というのは、交通事故を量的に減らすために速度を量的に規制しているわけだ。
質的な規制は、構造にアプローチする。
表面的には質的にみえても実は量的な側面が強いものもある。
例えば、約6年前、2012年6月に日本で成立したDVDのリッピング規制を考えてみればいい。
これはリッピング (に伴うプロテクト解除) という具体的な行動を規制したものであるにもかかわらず、量的な規制という色彩が強い。
苦労して手に入れた入手困難なDVDを、ディスク破損などに備えて1枚だけリッピングしても違法になる。この時、純粋な複製であればプロテクト解除をしないのでこの規制の対象外ということになる。理論上では。
実際のところ、数枚リッピングしても「これくらいで逮捕されるわけがない」と考える人は多い。つまり、法定速度を10キロオーバーするのとたいして変わりはないと。
実際、ほとんどの場合は逮捕されないだろう。
法の成立には、大量にリッピングしてのちのち利用しようと考えるような業者を規制したいという「要請」があった。そして「業者」であるかどうかなんて判定不能だから個人にリーチせざるをえないというわけだ。
でも時代が変わって、今はデータのコピーよりもアクセスコントロールが重要だ。
4Kの動画などの巨大なデータはHDDを圧迫するため、みんな手元に置いておきたがらない。そして動画サイトや有料の動画配信サービスは、今後どんどんサービスを充実させていく。
少なくとも2018年5月の日本では「もうすぐこういうサービスは無くなるから、今のうちに大量にダウンロードしとけ!」と考えている人は少ない。こういったサービスはこれからもっと充実していき、Blu-rayよりはるかに高画質の動画が観たい時に観れるようになるとみんなが考えている。
「すごく観たい映画」であるにもかかわらず「タダでも要らない」という感覚が生まれるなんていう状況は、2012年には想定されていなかった。
これは新しい技術にまつわる法律が、あっという間に古くなることの印象的な例でもある。
動画に限らず、既存の著作権の発想が残る市場において、コピーに対抗できるのは配信だけである。
ところで、日本特有の事情だが、漫画雑誌というのは特殊だった。
駅の売店で確かに「購入」はする。でも数人でまわし読みされることや、当日の帰りの電車で網棚に捨てられるということを前提にしていた。全盛期の週刊少年ジャンプの「200円」というのは、実際には所有権移転のための費用ではなく、アクセス権の購入に近いものだったのである。
単行本はモノ消費で漫画雑誌はコト消費だったのだ、ともいえる。
質的な規制というのは構造にアプローチし、長期的にはイノベーションを促進する効果が生まれる場合もあるが、たいていの場合、分かりにくくて大衆に訴えかける力がない。
質的な規制において、最も劇的なのがインターネットそのものにまつわる規制である。
しかも、インターネットを「可能」にするために、政府による規制が必要だったのである。
インターネットはもともと軍事技術で、アメリカの国策によって誕生したと語られることがある。
でもそれは単純にまず歴史認識として間違っている。
実際は一部のヒマ人たちが、エンド・ツー・エンド (以下、e2e) という設計思想を現実化するために浮世離れしたプロジェクトに邁進していた。
政府高官も軍事関係者も、e2eがそんなにインパクトを与えることになるなんて思っていなかったし、それがなんの役に立つかなんてまるで分かっていなかった。
e2eを設計した人でさえ、分かっていなかった。
まず設計思想ありきだったのだ。
e2e思想を含んだパケット通信のアイディアについて、1960年代にはまだ大企業の研究者たちも何か変な勘違い野郎が非現実的なたわごとを言っているだけだとみなしていた。
e2eの「うねり」とは別に、アメリカ政府は1970年代から1980年代にかけて、AT&Tに対して様々な規制をかけた。
この規制のおかげで、AT&Tの電話回線網は、そこを通るデータが何なのかについてAT&Tに介入されることがなくなり、インターネットの発展につながった。
AT&Tに対する規制は、人類の転換点だった可能性すらある。
でもこのことは技術に詳しいはずのギークたちにすらまだあまり理解されていない。
ローレンス・レッシグ『コモンズ』(原著は2001年刊) のP.62には以下のような記述がある。
ネットワーク設計の原理が、公共政策の問題にそんなに影響があるとは、なかなか思えないかもしれない。法律家や政治関係者は、そんな原理を理解しようとして時間をつぶしたりはしない。ネットワークアーキテクトたちは、公共政策の混乱について考えて時間を無駄にしたりはしない。
ブロックチェーンが誕生するずっと前に書かれた本だが、これはブロックチェーンについても同じことがいえそうだ。
ここまで話題になっているにもかかわらず、なかなかブロックチェーンがもたらすインパクトが伝わらない。
本屋でブロックチェーンの関連書籍を「金融工学」のコーナーに置いたりするのは、ブロックチェーンに興味がないとしか思えないうえに「金融工学」の意味も誤解している。
こうなるのは、広い意味でのサイエンスコミュニケーターの活動が貧弱すぎるというのもあるかもしれない。
ブロックチェーンの創生期がe2eの時と違ったのは、e2eは社会的影響を無視して自由に考えるという側面が強かったが、サトシ・ナカモトは初期段階から政府と通貨の関係を強く意識していたことだ。
e2eは、途中の経路で何もしない。転送に徹する。転送の際、特定のデータをひいきしたり妨害したりしない。
e2eを実現するために規制するというのはつまり単純な転送以外のことをさせないということでもある。
おそらくAT&Tに対する規制はe2eを特別に意識したわけではなく競合他社の保護のためだったが、結果的には最大のインパクトはe2eの大規模ネットワークが誕生したことだ。
規制のあり方が構造にアプローチするというのは、最新のテクノロジーに関することだけではない。
税についての制度設計も、構造にアプローチしやすい。
税についての法改正は、肯定する側からも否定する側からも量的な側面が強調されやすく、構造的にどのように変化させるのかが見えにくくなる。
また、税制についても時おり「数式」というある種の「コード」が入り込むので、分かりにくいものとして敬遠される。
でも必ずしも分かりにくいものばかりではない。
例えば、空き家問題や耕作放棄地について考えてみる。
こういった問題の一因として、権利者が大量にいるために土地を動かしにくいというのがある。
よかれと思って「とりあえずあいつの名前も入れとくか」となって、権利者が増えていくのである。
そこで、これを解決するために「人頭税」を導入してみるのはどうだろうか。
いっそのこと、人数に比例するのではなく、人数の2乗に比例するようにしてみてもいいかもしれない。
280人の権利者がいれば、78400倍の固定資産税を支払う必要がある。
この例では、権利者が複数いるということが長期的に悪影響を与えていることを問題視し、構造にアプローチするために特殊な税制を導入しようということだ。
「コミュニティの重要性」「家族会議」は、確かに分かりやすくて情感に訴えかけるものがある。
しかし空き家であるということはそこに住んでいないわけで、「そこで何が起ころうと知ったことか」という感覚が生まれやすい。
また、会議をすればするほど意見の相違が浮き彫りになって、頭の良い人から先に匙を投げ始める場合もある。
固定資産税が何倍にもなるということになれば、「とりあえずあいつの名前も入れとくか」という事態は防げる。
この例では、国や自治体が得る収入はどうでもいいのである。
e2eの話に戻ろう。
e2eの設計思想そのものは、コードが書けなくても理解できるし、どんなふうにe2eを実現するかという詳細な記述についても、コードそのものではない。
『コモンズ』P.78には以下のような記述がある。
この介入はさまざまな形をとった。一部はAT&Tに認められた事業範囲についての規制という形をとった。一部は同社が回線を競合他社にオープンにしろという要件だった。一部は、同社の利益になるように通信を少しでもゆがめようとしたら、政府から強い対応措置が取られるという全般的な恐怖だった。
でもその混合比率がどうあれ、そしてどの要因が一番重要だったかに関係なく、この戦略の結果として電気通信におけるイノベーション分野は開放された。AT&Tは自社回線がどう使われるかをコントロールしなかった。政府がそのコントロールを規制したからだ。コントロールを規制することで、政府は実質的にAT&Tの回線上にコモンズを作り出した。
パケットを選別することの恐ろしさについて、『コモンズ』P.80には以下のような記述がある。
でも真の危険は、こうした追加機能からくる意図せざる結果だ――つまりネットワークが、ある種のコンテンツをひいきしたり (あるいは排除したり) するような機能を売れるようになる、ということだ。主要ルータメーカーからのマーケティング文書で明らかにわかるように、QoSソリューションの重要な機能は、ネットワークの所有者に競合他社の提供サービスを低下させ、自分自身の提供サービスを高速化できるようにすることとなる――つまり、NHKには自動的にノイズが入るけれどTBSでは鮮明な画像が映るテレビのようなものだ。
レッシグはe2eを理解しやすくするためにアナログな例も出している。
『コモンズ』P.68には以下のような記述がある。
同じように、道路もエンド・ツー・エンドシステムだ。どんな車でも高速道路網に入れる (料金の話はここでは置いとこう)。車がきちんと車検を通っていて、運転手がきちんと免許をもっていれば、高速道路を使うかどうか、いつ使うかは、高速道路側の知ったこっちゃない。ここでも別のアーキテクチャを考えることはできる。それぞれの車は、高速道路に乗る前に高速道路網に登録しなきゃならないようにするわけだ (航空会社がフライト前にフライトプランを提出するように)。
(中略)
道路がバカなのは、スマート道路が不可能だったからだ。いまは状況がちがう。スマートグリッドやスマート道路は技術的に可能だ。コントロールはいまや現実的にも実行可能だ。そこでわれわれが考えるべきなのは、コントロールしたほうがよくなるのか、ということだ。
『Wipeout XL』では、コースにレッドブルの看板があり、「運転者」から見えるようになっている。
日本のWipeoutファンの中には、レッドブルは架空の企業だと思っている人も多いようだ。
この看板は別にディストピア的な皮肉とかそういうことではなく、本当にただのゲーム内広告だ。
でももし、そう遠くない未来、レッドブルが道路をつくったとしたら。
もしレッドブルが出資してつくられた高速道路があって、その道路はレッドブルが出資したメーカーの車は無料で走れて、サービスエリアでは無料でレッドブルが飲み放題になったとしたら。
まあこれだけなら別にいいということになるかもしれない。
では、この道路では自動運転が強制され、レッドブル系でない車は強制的に半分のスピードになるとしたら。さらに、レッドブル系の車はすべてに自動運転機能があって、自動運転機能がない車が走る場合には毎回ドライバーの運動能力検査や精神鑑定を受けて高額な特別料金も払わなければならないとしたらどうだろうか。
これは垂直統合がもたらす悪夢的な仮定だ。
垂直統合。
大企業の囲い込みによる、広い意味での「縦割り」の促進。
もちろん、大企業だけが垂直統合をやるわけではない。
今までコーヒーとサンドイッチだけしか出していなかった個人経営の店がビールも出すようになったというのも、垂直統合だ。
こういうのは通常は垂直統合とは言われないけど、大企業が戦略的に行う垂直統合と地続きだ。
「冷やし中華はじめました」と悪夢的な垂直統合が地続きであるとはイメージしにくいかもしれないが、たしかに地続きなのだ。
レッドブルが道路をつくってそこを走る車を規制する、という例はバカげているように思えるかもしれない。
でも、「NHKには自動的にノイズが入るけれどTBSでは鮮明な画像が映るテレビ」だって、『Wipeout XL』が発売された22年前にはバカげているとみなされただろう。
まあ実際には、レッドブルが道路をつくったとしても、レッドブルは極めて紳士的に振る舞うのかもしれない。
でも過去のAT&Tは実際に驚くような規制をしていた。
こんなものすら規制しようとしていたのか、というのが「ひそひそ電話」だ。
『コモンズ』P.54には以下のような記述がある。
AT&Tが作るか明示的に許可していない装置を電話に取りつけるのは、犯罪だった。たとえば1956年に、ある会社が「ひそひそ電話 (Hush-a-Phone)」なる装置を開発した。この「ひそひそ電話」は、電話の受話器に取りつけるただのプラスチックだった。部屋の雑音を遮断して、向こう側の人にこちらの話していることが聞こえやすくするように設計されている。装置は電話技術とはまったく接続されていない。強いて言えば、受話器のプラスチックの技術としか関係していなかった。雑音を遮断しただけで、利用者が受話器を手で覆って遮断するのと同じことをしているだけだった。
「ひそひそ電話」が市販されると、AT&Tは抗議した。これは「外的接続物 (foreign attatchment)」だというのだ。規制によれば、AT&Tの許可なしにはいかなる外的接続物も禁じられている。AT&Tは「ひそひそ電話」にそんな許可は一切与えていない。FCCもAT&Tに同意した。「ひそひそ電話」は一巻の終わりだった。
英語版Wikipediaでは1921年に製造開始となっているが、どっちが正しいのだろうか。まあそれはいい。
とにかく、ただのプラスチックを、天下のAT&Tが規制した。FCC (連邦通信委員会) も同調した。これは確かに異様な事態だ。
もっとも、電気工学とはほとんど無関係にみえるアナログなものがシステムに重大な影響を与えるケースは結構ある。
コンピュータ史上最も有名なのが、キャプテン・クランチだろう。
朝食用シリアルのキャプテン・クランチは、おまけに笛がついていた。そしてこの笛がたまたま2600ヘルツの音を出すものだった。昔のアメリカの公衆電話では、特定のタイミングで正確に2600ヘルツの音を出せば、タダで電話がかけられた。キャプテン・クランチの笛が2600ヘルツの音を出すことに気づいたジョン・ドレイパーは生きる伝説になり、服役後にアップルに入社してワープロソフトを書いた。
「2600」という数字は今でもハッカーにとって神聖な数字だ。
アナログによるハックの最近の例では、2017年9月に、至近距離にスマートウォッチがないと発砲できないようになっているドイツ製のスマートガンが、磁石を使って簡単に「認証」を突破できてしまうことが分かって話題になった。
ところで近年、セキュリティに関心が集まるにつれ、HTTPS (WEBでのSSL/TLS) が重要だとよく言われるようになった。
2018年5月現在、少なくとも先進国では、HTTPSの浸透はほぼ成功したといえる。
これによって、パスワードやクレジットカード番号が保護されるようになったというだけではない。
SSLはデータの中身が見えなくなるので、通信経路においてアプリケーションの種類によってひいきしたり妨害したりすることが難しくなったのである。
でもSSLを推進したがっていたギークの中で、これがe2eを守るための闘いでもあることを前面に出していた人は少なかった。
これはなぜなのだろうか。
SSLを推進したがっていたギークを4つに分類してみよう。
(1) e2eを守るためにもSSLが重要。でもそれを言うと「話がややこしくなる」「SSLが思想的に色がつく」と考え、とりあえずe2eについては黙っておく。
(2) e2eに関心がない、もしくは理解していない。あるいはそもそも知らない。
(3) e2eには肯定的だが、e2eとSSLはたいして関係がない。あるいは、e2eの定義によっては関係があるともいえるがそれはe2eを拡大解釈しすぎている。それに、SSL通信そのものをブロックすることによってたやすく前提は崩れる。また、SSLであってもアプリケーションの種類が分かる場合もある。でも利用者保護や企業イメージのためにSSLは推進する。
(4) e2eには否定的だが、今はとりあえずSSLを推進する。
で、俺はというと、もちろん (1) だったわけだ。部分的には、(3) の立場も「ごもっとも」ではある。
俺はSSLによってネットワークがe2e的にならざるをえない状況が促進されたと思っているわけだが、Torはもっとe2e的な状況を強制する。
Torは匿名性ばかりが注目されるが、政府に命を狙われている活動家が実名で安全に情報発信するためにも使える。「Torがなければ実名では何も言えない」という状況だってあるのだ。
皮肉なのは、AT&Tがe2eを許すかどうかという議論のときには、ネットワークを単純にすることによってe2eを確保していたわけだが、Torはその複雑さによってe2eを確保していることだ。これはレッシグも『コモンズ』を書いた時点では想定していなかったんじゃないだろうか。
複雑とはいっても、やっていることは基本的に「ある場合には玉ねぎを大きくしてから渡す」「ある場合には玉ねぎをむいてから渡す」この2つだけだ。
もちろん、Torが動作し続けるためには、ベースとなるネットワークがある程度はe2e的である必要がある。自分の上を通るパケットがTor関連のものかどうかはどうでもいい、という前提だ。
Torは終端ではデータが丸見えだが、HTTPSと併用することでTorノードからもデータを見たり改ざんしたりできなくなる。HTTPSのパケットは問題なくTorというトンネルを通ることができる。
そしてこれはまた、Torがe2e的だからということに帰ってくる。
各Torノードにとって、自分の中を通る「玉ねぎ」がもともとHTTPSの通信だったのかどうか (玉ねぎの中心部がHTTPSのパケットなのかどうか) はどうでもいいのだ。
民間企業による規制で今話題になっているのが、2018年になってから、GoogleやFacebookやTwitterで仮想通貨に関する広告の禁止を決定したことだ。
これは意外なこととして受け止められた。
仮想通貨の広告は詐欺的な内容のものがあまりにも多いこともあり、個人的にはこの決定にはさほど悪い印象は持っていない。
過去にネット企業が行った規制で最も印象的だったのは、2000年代のGoogleで、Googleに批判的なページを検索結果に表示しないことについてGoogleが「表現の自由」をもって弁護したことだ。
検索結果に表示しないのは表現の自由の侵害であるという論調があったわけだが、当時のGoogleは「いや、Googleにだって表現の自由がある」と対抗したのだ。
これには俺も考え込んでしまった。
1990年代の日本でインターネットが話題になった時には、検索エンジンはNTTの電話帳とよく比較されていた。
NTTの電話帳でも広告の掲載拒否があったりしたのだろうか。
NTTの電話帳の全盛期は1997年で、7100万部だそうだ。
週刊少年ジャンプの全盛期とほぼ同時期なのは偶然ではないのかもしれない。
2018年5月現在、Googleの検索結果にはGoogleを批判するページは大量に表示されるし、AmazonではAmazonを批判する本を大量に取り扱っている。
民間企業が「表示しない権利」をやたらめったら行使したらインフラとして機能しなくなるので、大きな批判が巻き起こることになる。
民間企業が提供するサービスが巨大インフラになった時、単純にそのサービスを自分の所有物とみなすことは難しくなっていく。
重要なのは、所有には濃度があるということだ。
100億円の資産がある富豪から10億円を盗むのと、10000円が全財産のホームレスから1000円を盗むのとでは、後者のほうが罪が重いと個人的には考えている。
もちろん、窃盗を推奨しているわけではない。それに、もし「金持ちからは盗んでいい」なんて考えが広まったら、富裕層はますます格差を拡大して防衛しようとするだろう。
もうちょっとマシな例えとして、個人の自宅の15坪くらいの庭にある池に鯉を入れるかナマズを入れるかというのと、個人が所有する広大な山林にどんな木を植えるかというのは、同じではないというのを考えてみればいい。
広大な山林だと、どんな木を植えるかによって災害発生時に大きな差が出る。自分の所有物件だからといって、何でもできるわけではない。
あるいはまた、ポケモンGOのためだけに庭に侵入したら犯罪とみなされるが、私有地の中の登山道で我慢できなくなって立ち小便をするのは犯罪とはみなされない、というのを考えてみればいい。
Facebookがまずいところを引き当ててしまったのは、検索結果や書籍のようにあくまで「考える素材」を提供するようなものではなく、Facebookで大量に流される偽情報が膨大な数の米国民の投票行動にダイレクトに働きかけていたことだ。
もうひとつ、FacebookがGoogleやAmazonや携帯会社と違ったのは、FacebookユーザーはFacebookでしか連絡がとれない人がいて、簡単に乗り換えるわけにはいかないことだ。
これは垂直統合を超えた問題だ。
垂直統合の便利さから逃れて不便さを受け入れても、Facebookでしか連絡がとれないのは単なる不便さの問題ではない。
2011年の日本で原発の問題が沸騰した時に、東京都民には東京電力しか実質的に選択肢がないことが問題になった。
Facebookは日本の電力会社よりはるかにオープンで、競争にさらされており、誰でも競合サービスを立ち上げられるのに、それでもこういうことになった。
Facebookがこんなに問題になったのは、ザッカーバーグが特別に邪悪だったからではなく、歴史の皮肉だ。
偽情報についてFacebookが何らかの対処を求められるということは、Facebookにはe2eのような性質は求められていないということだ。
Facebookは内容に積極的に介入することを求められている。
これはFacebookがただのプラットフォームではないと認定されたということでもある。
電話回線網そのものもインターネットも、マスメディアではないために、e2eが許されていた。
Facebookはマスメディアに近いものとして扱われようとしている。
また、今のFacebookは、「インスタントゲーム」という機能があり、ゲームのプラットフォームでもある。
もしFacebookで不謹慎なゲームが配布されたら、Facebookは対処を求められる。
任天堂はある種のプラットフォームビジネスを展開していたが、スーファミで動く過激なソフトについて任天堂が何らかの対処を求められるなんてことは無かった。
そしてスーファミ用ROMカセットとFacebookのインスタントゲームでは、不謹慎ゲームを配布するというその「不謹慎」の意味合いが大幅に変わってくる。
この違いはどこにあるのだろうか。
例えばスーファミでは、ゲームの存在を知ってもROMカセットを物理的に入手しなければプレイできない。
例えばスーファミでは、インディーズのゲームが友達の間で話題になっても、「つながり」によって強制的にゲームが表示されたりはしない。
でもコンピュータゲームを一度もプレイしたことがない人に、こういうことがすんなり理解出来るだろうか。
あなたは、当時の任天堂と今のFacebookがどんな風に違うのかを、近所のおばあちゃんにも分かるように説明することが出来るだろうか。
例えおばあちゃんが理解できなかったとしても、規制について考える人は理解している必要がある。
いずれFacebookは垂直統合の最も悪夢的な例として記憶されることになるかもしれない。
ALISの場合は、介入よりも「信頼」によって自動的に偽情報が不利になるようにしようとしているようだ。
「メディア」でありながら、特定の記事が自動的に不利になる。そんなことがうまくいくのかは分からない。
ちなみに俺はFacebookにアカウントを作ったことはない。
そしてこれからも使いたくないのは、FacebookはSNSとしては巨大すぎるというのもある。
今もしALISの運営が多少強引なことをやっても、大きな批判は起こらないだろう。それは、少なくとも今のALISは社会インフラではないからだ。
小規模であるということは、所有の濃度が濃いのである。
小規模というだけでなく、ALISでしか連絡がとれないというようなことがない。
もし今後ALISが「ALISメッセンジャー」のようなものを用意して、基本は無料だがALISトークンを支払えばこのメッセンジャーをものすごく便利に使えるというような、そんなサービスが登場したとしたら。
こうすると必ず、ALISでしか連絡が取れない人が出てくる。
誕生して10年も経っていないのにビットコインは2018年5月14日時点で288回も死亡しているので、おそらくALISもこれから何度も『ALISは死んだ』『ALISは終わった』と言われることだろう。
今後「ALISのチェーン」が登場するのかどうか分からないが、コードがオープンソースなら誰でもALISの分岐を作ること自体は可能だ。
気に食わなければ、誰の許可もとらずに代わりのものを立ち上げられるのがオープンソースの良いところだ。
まあそれも、インターネットがe2eであり続ける限りは、ということになるが。
分岐ということでいえば、仮想通貨の銘柄をホワイトリスト的に名指しで規制する日本のやり方は本当にいいのだろうか。
例えば、あるチェーンにおいて運営があまりにもグダグダになって、創始者たちが分岐したほうに大移動したりした場合、銘柄としては別のものが「本家」になる。
これから先、ブロックチェーンに関することでどんなことが起こるかは分からない。
思いもしなかったことが次々と起こるだろう。
こういう中にあって規制について関心を持つ人にとっては、ブロックチェーンのさらに下層のインターネットというアーキテクチャをめぐって何が起こったかは参考になるはずである。
当分は俺も規制について注視して、思うところがあれば何か書いていこうと思う。
インターネットがe2eであり続ける限りは。
・2018-05-14 07:24 記事を一部訂正
修正前「例えば、約5年前、2012年6月に」
修正後「例えば、約6年前、2012年6月に」