こうやって向き合うことで、実はその表面的な怒りには根っこがあって、その根っこにはもっと深い根っこというのがあることがわかってくる。
僕が気づいたのは、(もちろんこれだけが全ての原因ではないのだが)彼女の機嫌が悪くなってくると、決まってお金の文句を言い出すこと。(過去記事参照)
僕としては、所有の概念を取り外して二人で一体化したつもりだったんだけど、彼女から見ると僕がワークショップでお金を稼いでいても、生活費に十分でないので、まるで僕の事がヒモの様に見えたらしい。
僕は今までに、何十万円もの額を自分のお金がなくなるまで、友人やコミュニティーにシェアしてきたので、自分のお金の流れが悪い時にお金を持っているパートナーとシェアし合うことになんの抵抗も恥ずかしさもないのだが、人それぞれ考え方が違うのは当然のことなので、それが今回のぎっくり腰を通して明らかになったのは、とてもありがたいことだ。
僕はパートナーに今はお金を共有することは辞めて、いずれ僕の所持金が彼女の所持金を上回った時に共有するように伝えた。
そして、もし僕達が別れる時が来れば、彼女がフェアな範囲内で払ってほしいと思う金額を幾らであろうと払うことを約束した。
僕は13年前、25歳の時に所有という概念を捨てた。全ての持ち物を断捨離し、バックパック一つ、自分ひとりで担げる範囲にまとめた。
僕にとっての豊かさの基準は物を持つことじゃなくて、物を使用することが出来ること。
使いたいものを使いたい時に使えて、それを使いこなすことが物質的な豊かさだと考えている。
だから、僕にとって共有というのは豊かさを生み出す一番の近道。豊かさの概念を変えて以降、執着なくなんでも楽しめるようになった。
ぎっくり腰から、一週間がたった今日。パートナーとはうまくやっているのだけど、それでもたまに摩擦は生じる。
彼女が彼女自身のネガティビティを外にぶつけているのを見ると、そこに対して、外にネガティビティをぶつけるのは無意味だよと教えたくなる。
それを話すと、君の中にネガティビティがあるから、それをネガティビティとして見るんじゃない?と反論が来る。
結局水掛け論になって終わらない。
でも、僕がそのことを切っ掛けにして気づけたのが、やはり外側(パートナー)に対して変化を求めても意味が無いということ。
僕に出来るのは、外側を見て好みじゃないことがあれば、自分がそれをしないということ。
彼女にとってそれはそれで完璧で、僕の価値観や好みを強制する必要はないということ。
彼女も時期が来れば気づくときが来るかもしれないし、来なくてもいいのかもしれない。
僕にできることは、そこに完璧さを見て、そのプロセスを喜ぶことだけ。
そして僕は自分のネガティビティを昇華させて、周りのネガティビティを変化させようと関わる必要はないということ。
関わればそのバイブレーションに引っ張られてしまう。
自分の内側の光に集中し、それを放射すること。
それだけで伝わるときが来れば自然と伝わる。
腰はまだ完治ではないけど、日常生活は出来るようになっている。明日からはまたワークショップを再開し、明々後日にはこの島を出る。
4ヶ月の最高に楽しいホリデーはこれで一旦終わりだ。
風邪で寝込んだり、警察に国外追放されそうになったり、海難事故に関わったり、解毒作用でのたうち回ったり、喧嘩してぎっくり腰になった事などを記事に書いてきたが、勿論それだけではなく、実際には楽しいことの方が圧倒的に多い。
今回のホリデーではいい感じのキッチン付きのバンガローとゆっくりとした時間が有ったので、発酵食品づくりを楽しんだ。
ココナッツミルクからヨーグルトを作ったり、納豆菌を取り寄せて納豆を作ったり、タイの食材でキムチを作ったりした。
こういった事も書きたいのだが、すべてを書ききれるものでも無い。
この後はバンコクへ飛んで、週末はソンクランの水掛け祭りとマーケットでのバスキング。そして、週明けにはインドネシアのバリに飛ぶ。
バリではウブドと言う60年代からある有名なアーティストの村に滞在し、その後は来週から1ヶ月間開催される旅人の集い、ワールドレインボーギャザリングに向かう。
また移動の流れがやって来たようだ。
つづく。。。
次回は、長年憧れていたバリ島のウブドへ向かうが、時既に遅し。島自体は非常に美しいのだが、見事に観光化されていてがっかりしたと言う話。
インドネシア、バリ島のがっかり感とジャワ島の村人の美しさ1(現在018)
(この記事は2017年4月10日に自身のブログに投稿した物を加筆修正してアリスに再投稿したものです。)
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