以前のお話→https://alis.to/dorogamihikage/articles/3qQ6Dn4X7pwG
BGMどーぞ↓
いつもの駅に着く。見慣れたプラットフォームと改札口と駅前の風景。安堵感と、楽しい時間を過ごせた満足感と、旅行が終わってしまった寂しさが織り交ざって複雑な気持ち。いつもより少なめな言葉数。
月が出てる。
「ねえ君、月がきれいだね」
私がそう言うと君は空を見上げて、そして月を眺めたまま
「うん」
って答えてくれた。
あ、これって夏目漱石がI love you.を『月がきれいですね』って翻訳したっていうエピソードを引用して、暗に好きだって言ったって思われたりするかな。
・・・まあ、いいか。君のこと、大好きだから。
いつもさよならする踏切に着く。警報機がなり、遮断機が降り、電車が音と風を立てて過ぎてく。四角い光がいくつも私たちを照らしながら。
電車が遠ざかって遮断機が上がると急に静か。君の言った「じゃあまた明日」が小さな声だったけどよく聞こえた。君の後ろ姿。明日もまた見れますように。
不治の病だと「かわいそう」とか「不幸」とか言われるけれど、私は全然そうは思わないんだ。だって、死ぬ準備ができるから。
もちろん死ぬのは嫌。死にたくなんてない。けど、いろんな死に方の中で不治の病ってそんなに悪くない死に方だなって思う。大切な人との時間を大切に過ごして、もしかしたら「ありがとう。じゃあ、さよなら」って言って死ねるから。
もしも交通事故なんかで死んじゃったらこんなこと絶対できないじゃない。本当は大切な人と過ごす最後の日だったとしても、それを知ることができないから、その時間をとても雑に過ごしちゃうかもしれない。ケンカとかしてひどいこと言っちゃったりして「次会ったらちゃんと謝ろう」なんて思ってたのにその次が来なくて、大切な人に最後にかけたのがひどい言葉だったりするほうがずっとかわいそうで不幸だ。
「不治の病じゃなかったらいいのに」なんて何度も思ったけど、本当にそうだとしたら、きっと私は毎日を無駄に生きてしまっていたと思う。大切な人を雑に扱って、失って初めて幸せで大切だったと気付いて後悔する。きっとそんな人生を生きていただろう。そんなのって嫌だ。
でも、よく考えてみれば世界中のどこを探したって永遠に生きる人なんていないのだから、人は誰も寿命っていう不治の病を抱えて生きてるようなものじゃないか。人生が永遠に続くような気がしてもそんなのは錯覚でしかない。それかそのことから目をそらして、考えないようにして生きてしまう。誰だって本当は限りのある時間を生きてる。そのことについては私も他のみんなも平等だ。同じなんだ。だから誰だって無駄な日なんて一日もない。全部の時間を大切に生きたほうがいい。
そのことに気づくことができたから、だから私は不治の病で死ねることが幸せだ。
ああほんと今夜は月がきれい。ね、君。
つづく→https://alis.to/dorogamihikage/articles/3ldpnAZ0Elng