前回の記事で紹介したのですが、ジャライ族は移動式焼畑農業と呼ばれている生活様式を古来より送ってきました。
森林を燃やしはするのですが、長期的に見れば森林の減少には繋がらない、自然の再生リズムとシンクロした生活リズムでした。
しかし15年ほど前から、ジャライ族が生活していた森の環境に変化が出てきました。
カンボジアが急速に経済発展する中で木材の価格が高騰します。
それに目をつけた現地のカンボジア人、ベトナム人、中国人などがジャライ族などの山岳民族が生活する森林地帯を大規模に伐採するようになったのです。
みるみる間に森林は減少していきます。
そして森林伐採をする業者と癒着している地方政府は、ジャライ族による焼畑を森林減少の原因だと非難されるようになったのです。
非難されるだけではなく、森林が生活基盤であるジャライ族は今まで通りの生活もできなくなります。
必然的にカンボジア人(クメール人)社会との交流が加速していき、一般のカンボジア社会にジャライ族が吸収されるような状況になっていきました。
特に文字の読み書きができないジャライ族は、騙されたり搾取されたりして、今まで生活していた土地の権利をいつの間にか奪われてしまって、途方に暮れてしまうような人が多数出てきました。
ジャライ族の生活様式、文化の存続、その他諸々の危機に急速に直面するようになりました。
やがてジャライ族をはじめとする山岳民族たちは国際協力団体に援助を求めるようになってきました。
そんな環境の中で、以前からカンボジアで協力活動を行なっていた北海道に基盤を置く国際協力団体が、ジャライ族に対して協力活動をすることになったのです。
そして自分がその団体の現地駐在スタッフとして、ジャライ族が住むラタナキリで生活することになりました。
これが自分がジャライ族と関わることになった経緯です。
こうしてジャライ族シリーズの最初の記事でも書いたような生活が始まりました。
名目はジャライ族の支援でしたが、結果的には自分自身が本当に多くのことを経験させてもらって学ばせてもらいました。
それ以後の人生に大きな影響を与えた期間でした。
これまでジャライ族の風習などを多く紹介してきたのですが、これから数回は実際に自分が彼らとどう関わったのかを書いていきたいと思います。
まず一番最初に行ったことは、とにかくジャライ族の村に入って村人と一緒に生活をして、村の現状を知り、彼らが何を考えているのかを知り、どんな支援を求めているのかを知ることでした。
次回にその詳しい過程を紹介しようとおもいます。