10年ほど前から瞑想を日々の日課にしています。
1日2回ほど座って目を閉じて瞑想するとてもシンプルなもの。
縁あって瞑想に関わることが自分の仕事になりました。
何で自分は瞑想なんかしているのかなあ。
これは数ヶ月、数年周期で訪れる疑問です。
毎回のことなのですが、何で瞑想しているのかという問いはどんな生き方をしたいのかという問いにつながっていきます。
そんなある日、ローソンである支払いのためにloppiで手続きをしていると、ふと年配の女性に声をかけられました。
その方はloppiを指差して「ここでお金払えるの?」と聞いてきました。
そこでつい「お金ならレジで払ったらいいですよ」と返事をしてしまったのです。
そうするとその女性は「レジの人にこっちにくるように言われたんだけど」と言いながら戸惑いながら帰っていきました。
その時に、その方は何かの支払い手続きの仕方をレジの人に聞いたら、ぶっきらぼうにloppiで手続きをするようにとだけ言われて困っていたんだということに気がつきました。
もし最初からその状況に気がついていれば、すぐに手続きの仕方とかを一緒に探せてあげられたのにと、すごい後悔をしてしまいました。
でもその方はすでに店の外にいて手遅れ。
なぜかものすごい後悔の念が続いたのですが、その時にふと自分のありたい姿に気がつきました。
自分はこんなふうにたまたま出会った人にちょっとした手助けをできればすごく心が満たされるのだということ。
誰でもできる自然な在り方で十分だったんです。
かつての自分もどこか人助けをしたいという気持ちはあったのですが、そのためにわざわざ海外 NGOに参加したり、震災被災地に行ってボランティアをしたり。
もちろんその時の行動は意味あるものでしたが、今はたまたま縁あって出会った人を助けられた時に少しだけ心が温かくなる。
そんな感覚がすごく嬉しくなりました。。
一期一会のような偶然の出会いのなかで、たまたまちょっとだけ人の役に立つこともある。
そんな些細な出来事の繰り返しのような日常を生きていきたいのだと思いました。
それだけシンプルなことなんです。
そしてこのシンプルな願望は、瞑想を日常に取り入れることで変化していったものだと思います。
瞑想する前の自分の理想像はおそらくもっと複雑でこんがらかっていた気がします。
人から認められたい。すごいと思われたい。特別になりたい。
今の自分にとっては一番どうでもいいものですが😅
シンプルになるためには、何も特別な能力や才能は必要はありません。
ですが自分が本当に望んでいることが、”ただシンプルになりたいこと”
というシンプルさに気がつくために日々の瞑想を実践したり、大きな回り道をしてきたのだと思います。
と同時に長年感じていた瞑想に関するある違和感にも気がつきました。
世の中様々な瞑想がありますが、どれも基本的にはただ目を瞑って座るだけのシンプルなものです。
ですが中には、ある特殊な瞑想をすることで超自然的な能力を得られるとか、アセンションを達成できるとかを売りにしている瞑想もあります。
その瞑想を長年やっている人に多く出会ったことがあるのですが、残念ながら誰もそういった状態を達成した方はいませんでした。
啓発(いわゆる悟りのようなものです)?を得られるという瞑想もあります。
ここで語られる啓発は、ある形態の瞑想しているコミュにティのリーダー的な人に認定される肩書のようなもの。話を聞くところ、不眠症の人は認定を受けやすいそうなのです。
それだったらNFTでも十分な気がします。自分でもミントできそうなくらいです。
いつか遊びで瞑想NFTシリーズでも作ってみようかなあ。。
自分が実感している瞑想の効果は、アセンションや超常能力といった何かを得るというものよりは、膨れ上がって肥大した意識やエゴの渇望を少しずつ手放すといった引き算のようなものです。
あるいは、様々なことで複雑化してしまった意識を、”いまここ”、今この瞬間という一点において微分していって、シンプルな方向性だけに行き着いていくようなそんなプロセスなのかもしれません。
ただただシンプルに。
のんびりした日常。
やりたくないことはやりたくない。
ニャンコやわんこたちのように。。
自分は、生き物たちと触れ合ったり、カフェでまったりしたり、温泉に浸かったり、きれいな風景をお散歩したりするのが好きです。
さいわい瞑想を日々の生活に取り入れることによって、そういう日常が訪れるようになりました。
瞑想との出会いに感謝🙏