今週もすっきりしない梅雨空。でもそんな梅雨に負けず家族で車に乗って約5時間、福島県に行ってきました。
常磐道で行ったのですが、対面通行が多くって運転できない私は終始ドキドキです。運転大好きな夫二何度も「怖くないの?対向車が突っ込んできたら逃げられないよ🥲」と心配性な性格が炸裂の長距離ドライブでした。
目的は東日本大震災の震災遺構となった請戸小学校を訪れること。
以前夫が行った時に衝撃を受け、3歳の息子にも理解はできなくとも地震と津波について肌で感じて欲しい、ということで行くことになりました。
12年前。
あの大震災の時、テレビのニュースで連日聞いていたあの町の名前を皆さん覚えていらっしゃいますか?
宮城県石巻市
宮城県気仙沼市
宮城県釜石市。
福島県双葉町
福島県大熊町
福島県浪江町。
10mを超える津波が沿岸の町を飲み込み、何もかもがなくなりました。
そう、何もかも。
それに加え福島県の上記の町は東京電力の事故により、町自体が放射能により土壌汚染され、帰宅困難エリアに指定。
あれから12年。いまだに帰宅困難エリアは残っています。
高速道路でも福島県にはいった途端に放射能レベルを表示する看板が目に入ります。
そして大熊町、双葉町、浪江町町のあたりのインターチェンジで夫が高速を降りました。
「帰宅困難エリアだよ!通行できるの?!」
思わず声をあげてしまった私。夫は大丈夫、と言いながら「それよりもこの町の様子を感じて欲しい」と言って車を走らせます。
住宅街なのに人影はありません。
お店も学校も何もない。
立ち並ぶ一軒家の数々は人の気配は全くなく、住人を失った家が朽ちながら寂しそうに佇んでいます。
12年前までは飲食店であっただろう、美容室であっただろう店舗もシャッターが閉まるでもなくがらんとそこにあります。
対照的の草木は年月分しっかりと成長し、あちこちで青々と生い茂っていました。
すれ違う車はトラックばかり。この辺りの放射能にさらされた汚水を運んだり、土壌汚染の土を運んだりする、そういうトラックだけが何台も通行し、生活のための一般車はほぼありません。
あちこちに「ここさき通行禁止」バリケード。今もなお立ち入ることが許されないエリアがまだまだあって、もちろんそこにも家が立っていて。
あれから12年です。
あの時生まれた赤ん坊が中学生になる年月がたったのに、かつての生活はそこにありませんでした。
双葉町を通り抜けた時、目に入った看板があります。
「環境に優しい双葉の米」
あの日まではきっと美味しいお米が実ったのでしょう。水も空気も美味しいこの町で秋には頭をたれる稲穂がそこかしこにあったのでしょう。
あの日までは。
なんという皮肉な。
帰宅困難エリアを通り抜け夫が車をとめたのが請戸小学校震災遺構です。
奇跡的にここの小学校全生徒は先生方の迅速な判断と対応で近くの山にのぼり命を取り留めることができました。
ただ、小学校には津波が押し寄せ、その悲惨な状態のまま残されています。
悲惨な状況とは想像できていたつもりでした。
でも
実際その場に行って自分の目で見て
そのむごさに言葉を失いました。
そこにいた地元のスタッフの方が教えてくれました。
「子供達は無事避難できたんですが、あの日はとても寒くて。でも上着を着る時間もなく飛び出したままひたすら歩き続けて、、、、雨に濡れてさらに寒くて。地震で大木が倒れている山道を必死で登って。寒かったんですよ。」
近くの山、といっても子供の足で歩いて避難するにはすごい距離です。そこからさらに山を登って。登っている間に木が倒れてきたら、、、
どれほど心細かったでしょう。
家にいる、職場にいるお父さんお母さん、家族を想ってどれほど不安だったでしょう。
登りながら背中の方でごおおおおおおおおっと不気味な音が聞こえてきたそうです。
しばらくして様子をみようと先生が少し下山して目の当たりにしたのは海に埋まった町でした。
「もう、戻れない」。
震災遺構をでて津波がきた海岸に行ってみました。もう小学校からすぐです。
手を合わさずにいられませんでした。
私の祖母もよく言ってました。
「地震のあとは津波がくるよ」
子供の頃の私には意味がわかりませんでしたが、先人は知っていたのですね。
地元の方いわく、「帰宅困難エリアは国が土地を買い取って、もうこれ以上どうすることもでこない、人が住めるようにはならないんです」とおっしゃってました。
復興は道半ばです。
私にできることは何か。
それを考えるきっかけになった旅となりました。
ちなみに浪江町には道の駅があります。
自由に子供を遊ばせることができるポケモンだらけのプレイルームもあるし、ポケモンの巨大遊具もあります!
今私たちができること。
福島に行きましょう!
美味しいもの食べて発信しましょう!
1人でも多くの人が福島に訪れることを願って。