こんなに拗らせている私にも数少ない友達がいる。「友達がいる」とは言ったものの、相手が私のことを友達だと思っているかはわからない。私は相手のことを友達だと思っているので、ここでは友達というように明記しておく。
数少ない友達も、いずれライフスタイルや環境の変化など何かしらのタイミングで疎遠になってしまったり、何かの拍子に突然縁が切れてしまったりする可能性がないとは言いきれない。実際に、高校の時に同じクラスの仲が良かった人達とは縁が切れたような状態である。連絡も取っていなければ会ってもいない。この縁が切れたような状態を、「いずれは何かしらのタイミングで疎遠になったり切れる縁だったからそのタイミングが今だっただけだ」と受け入れてはいるものの、数少ない友達がいなくなった時のダメージは、友達が多い人よりも大きいのではなかろうか。
約1年半前(まさにコロナ禍に入る直前)に、高校の時に同じ部活だった友達と4人で某夢の国に行った。住んでいる場所がバラバラなので、集まるのは実に一年ぶり。楽しい時間はあっという間だった。帰る時は私だけ反対方向の電車だった。3人との別れ際に、「今日を機にもうこの子達とは会えなくなるかもしれない」と一瞬だけ思った。何の根拠もないが、何となくの勘だった。それからコロナ禍に入りその友達とは会っていない。年明けにあけおめLINEをお互いにしたくらいだ。
高校の時の友達だけではなく、中学の時に同じクラスだった友達、同じ部活だった友達もいるが、やはりみんな住んでいる場所がバラバラで、それぞれの環境でそれぞれの生活をしている。友達のSNSを見ていると、やはりそれぞれの環境でそれぞれ別の友達がいて、その友達と遊んでいる写真が投稿されていたりする。面倒臭い人間だと自覚はしているが、こういうものを見た時に、「私にとっては数少ない友達という貴重な存在だけど、その友達にとって私は数多くいる友達のうちの1人でしかないんだろうな」と思ってしまう。本当に面倒臭い人間だと思う。これがメンヘラなのか。前にこれと同じようなことを俳優の本〇奏多さんが仰っていて首がもげるほど共感したなぁ。
本当は貴重な存在である数少ない友達と遊びたい。遊びに誘いたいけれど、それぞれの生活が忙しいかもしれない。何せこのご時世だから遊びに誘いづらいし遊びに行くのはちょっと危険だ。
「忙しいのに遊びに誘ったら迷惑だよな…」
「このご時世で遊びに誘うのは危険だよな…」
「私から遊びに誘われてそもそも嬉しいのか?誘うのは私ばかりではないか?」
たかが遊びに誘うだけで色々考えてしまうあたりに、自分の生きづらさが出ている。このまま友達と遊べることなく時間を持て余し、社会人になってしまうのだろうか。