コロナ禍で経済格差や環境破壊などの社会問題が意識され、カール・マルクス『資本論』や関連書籍への関心が高まっていると報道されました。若い人達を中心に反響が多いとされます(「「資本論」への関心高まる コロナ禍で“経済格差”など意識か」NHK 2021年5月30日)。この報道に接して不思議な気持ちになりました。
コロナ禍で経済格差や環境破壊などの社会問題が意識されることは理解できます。それが『資本論』になることが不思議です。既に社会問題の解決ならばSDGs; Sustainable Development Goalsのようにビジネスやテクノロジーで解決するアプローチが盛り上がっています。
DX; Digital Transformationも「ITの浸透が、人々の生活をあらゆる面でより良い方向に変化させること」(ウメオ大学のエリック・ストルターマン教授)であり、社会問題の解決に繋がります。コロナ禍でもITを利用した非対面非接触のNew Normalへの適応が志向されます。
これらのアプローチが盛り上がっている中で本当に若い人達が『資本論』に期待しているのか疑問が生じます。本当ならば逃避になるのではないかと感じます。『資本論』は古典として読む価値はあるでしょう。しかし、今日的な社会問題解決のために読むならばピント外れになりかねません。『資本論』はAIやIoT、ビッグデータといった第4次産業革命を前提としていないからです。
『ホモ・デウス』には以下の記述があります。「もしマルクスが今日生き返ったら、かろうじて残っている信奉者たちに、『資本論』を読む暇があったらインターネットとヒトゲノムを勉強するように命じるだろう」(ユヴァル・ノア・ハラリ著、柴田裕之訳『ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来』河出書房新社、2018年、下巻96頁)。
管見はマルクスの思想的価値を資本主義の先の世界よりも、資本主義の前の封建的な支配体制の批判に見出します。まだ見ぬ資本主義の先の世界よりも、現実に存在した封建社会の批判の方が研究の完成度は高いです。たとえば宗教を民衆のアヘンと喝破したような(『ヘーゲル法哲学批判』)。
その研究は現代日本にも有用です。現代日本には前近代の村社会的なところがまだまだ残存しています。近代的な組織でも家父長的な支配があります。資本主義の弊害以前に、昭和の村社会が資本主義的なイノベーションを抑圧しています。
マルクス主義の適用を考えるならば資本主義批判より、資本主義以前の昭和の村社会批判に注力した方が良いでしょう。歴史を振り返っても、社会主義革命が起きたロシアも中国も資本主義への不満よりも、地主による小作人の封建的支配への不満が原動力になりました。
----- Advertisement ------
◆林田力の著書◆
東急不動産だまし売り裁判―こうして勝った
埼玉県警察不祥事