玉の輿たまちゃんは東京都江東区木場の洲崎神社(正確には崎は立の崎)のマスコットです。2019年から洲崎神社に登場した比較的新しい存在です。洲崎神社を建立した桂昌院に因みます。桂昌院は八百屋の娘から三代将軍家光の側室になり、玉の輿の語源になったと言われます。たまちゃんは八百屋に因み人参を持ちます。木場に因み牙が生えています。尾尻は破魔矢です。漫画チックな外観ですが、考え抜かれたキャラクターになっています。
桂昌院は生類憐れみの令で有名な江戸幕府五代将軍・徳川綱吉の生母です。元禄13年(1700年)に桂昌院が守り神としていた元弁天社を江戸城中の紅葉山から遷したことが洲崎神社の起源です。海岸から離れた小島に祀られたために「浮弁天」と呼ばれました。当時の洲崎は海岸線でした。海辺の景勝地で、釣りや潮干狩り、船遊びなどで賑わっていました。
江戸時代の洲崎弁天は寺院色の強いものでした。幕末の江戸を訪れたシュリーマンは廃仏毀釈以前の様子を記録しています。「寺の傍らに、一メートルの厚い台座の上に、高さ二・二二メートルの青銅製の大仏が座っていた」(ハインリッヒ・シュリーマン著、石井和子訳『シュリーマン旅行記 清国・日本』講談社学術文庫、1998年、155頁)。明治維新後の神仏分離によって洲崎弁天社は洲崎神社になりました。厳島神社の御分霊祭神・市杵島比売命を斎祀します。
洲崎神社は海難除けの神社としての歴史があります。洲崎神社が海難除けの信仰を集めた背景は、江戸時代には周辺が海岸線であったためです。鳥居をくぐった左脇には「波除碑」と「津波警告の碑」があります。江戸和竿の名人・竿忠の碑もあり、やはり海に縁があります。海と離れた神社で海難除けの御利益を求めることも面白いです。
洲崎は寛政3年(1791年)の台風による高潮で多くの死傷者を出し、洲崎弁天も大破しました。このため、幕府は一帯の土地を買い上げて空き地としました。当時は松平定信による寛政の改革が行われていました。歌川広重の浮世絵・深川洲崎十万坪では一面葦が生い茂る湿原が描かれています。
高潮から3年後の寛政6年(1794年)に波除碑が建てられました。この年は謎の浮世絵師・東洲斎写楽が活動した年でもあります。波除碑は江東区牡丹の平久橋にも建てられ、二基とも1976年6月4日に東京都指定有形文化財(歴史資料)に指定されました。
近代以降は塩浜、枝川、豊洲と埋め立てが進み、海岸線は先になりました。現在の洲崎神社は住宅街の中に鎮座しており、浮弁天の面影はありません。それでも境内から社殿を見ると、街中の浮島のような感覚になります。数ブロック先には交通量の激しい永代通りがあることが嘘のようです。
明治時代には現在の東陽一丁目となる地域が埋め立てられ、根津遊郭が1888年(明治21年)6月に移転し、洲崎遊郭となりました。地名は洲崎弁天町です。洲崎遊郭は吉原や大阪松島と共に日本三大遊廓の一つになりました。戦後は洲崎パラダイスと呼ばれる歓楽街になりました。小説『忍ぶ川』や映画『洲崎パラダイス・赤信号』の舞台になりました。
洲崎神社は埼玉県さいたま市南区別所の別所沼公園の別所沼弁財天の勧請元です。洲崎遊郭の貸座敷・長生楼の経営者の小島長次郎が別所沼一帯の土地を購入しました。長次郎は博徒の親分でもあり、茨城県生まれで、茨城長と呼ばれていました。長次郎は購入した土地を、「昭和園」として整備し、沼の中に弁天島を築き、別所沼弁財天を建立しました。
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