方広寺は京都府京都市東山区にある天台宗の寺院です。京阪本線七条駅が最寄りです。豊臣秀吉が発願して造った大仏を安置するために、高野山の僧の木食応其が創建しました。ところが、文禄5年(1596年)の慶長伏見地震で大仏は倒壊しました。豊臣秀頼は亡父秀吉追善供養のため、大仏を再建しますが、方広寺鐘銘事件が起きてしまいます。これが大坂冬の陣の遠因になりました。
方広寺鐘銘事件は卑怯な言いがかりであり、徳川家康の汚点です。秀頼が再建した方広寺の鐘銘には「国家安康」「君臣豊楽」の文字がありました。国家安康は「国が平らかに安定し康らかに治まっている」、君臣豊楽は「君主から家臣まで豊かに過ごし暮らし楽しむ」の意味です。結構な文言です。何の問題もないものです。
ところが、それに家康は難癖をつけました。安の一字で家康を分断した上、豊臣を君として楽しむものと非難します。一般的な読み方とは異なる言いがかりです。何が何でも豊臣にケチを付けなければ気が済まない家康の狭量を示すものです。
幕府御用学者の林羅山に至っては「右僕射源朝臣」が「源朝臣(徳川家康)を射る」意味になると難癖をつけました。僕射は大臣の唐名です。黄門(中納言)などと同じです。本気で主張しているならば林羅山が無知で恥ずかしいことです。
近時の研究では家康は関ヶ原の合戦後に完全な天下人になった訳ではなく、徳川と豊臣が併存する二重公儀体制であったとされます。家康自身も当初は二重公儀体制で良いと思っていたとされます。ところが、後から心変わりして、豊臣家を屈服させるか滅ぼすかしないといけないと考えるようになりました。それが難癖の背景であり、豊臣よりも徳川の問題です。
問題の梵鐘は現在も残っており、重要文化財に指定されています。梵鐘がそのままにされたことは、呪詛が言いがかりであることの裏付けになります。
後の戊辰戦争は関ヶ原の西軍による徳川への復讐戦のようになりました。ここには方広寺鐘銘事件の卑怯な言いがかりへの反感も影響しているでしょう。家康は業績の割に人気は低い人物です。そこには方広寺鐘銘事件のマイナスイメージがあるでしょう。私は歴史上の人物の中で家康を評価していますが、方広寺鐘銘事件はいただけません。人々の記憶に卑怯者と刻まれては歴史上の業績も色あせます。
一方で近時は方広寺鐘銘事件が家康の完全な言いがかりではなかったとする見解が出ています。当時は名前を使うことを憚る意識があり、それにも関わらず大阪側が意識的に使用していたとします。NHK大河ドラマ『真田丸』でも意識的に使用したと描きました。
名前を使うことを憚る意識は、名前は他者から認識されるために存在するという名前の本来的機能とは異なるものです。実際のところ、名前は落首で使われています。手取川の戦いの落首は「上杉に逢うては織田も手取川 はねる謙信逃げるとぶ長(信長)」は上杉謙信と織田信長の名前が使われています。上杉謙信を持ち上げて、織田信長を貶めていますが、どちらも平等に名前を呼ばれています。当時も名前は他者から認識されるために使われており、絶対のタブーというものではないでしょう。現代に残る落首は当時の教養人の書いていたものと考えられており、単なる落書きと見るべきではありません。
大阪側が意識的に使用したとして、だから家康の言いがかりを理由あるものとするか。そこは見識が問われます。後の江戸時代は蚊がぶんぶん五月蝿いと詠んだら(世の中に蚊ほどうるさきものは無し ぶんぶといふて夜も寝られず)、政権を批判したと目をつけられました。表現の自由にとって暗黒時代でした。権力が「このように解釈できる」と言いがかりをつけることは危険極まりないものです。現代でも権力者が不快感を持つからと言葉を選ぶヒラメ公務員的な忖度社会を是とするか。方広寺鐘銘事件を家康の卑怯な言いがかりと捉える側に立ちます。