当たり前だが、僕は死を恐れている。
しかし、どうしようもないとも思っている。
・不死を実現したとしても、ゴールのない状況が永遠に続く苦痛は計り知れない。
・長寿になっても、死の恐怖は避けられない
・死ぬとして、死の恐怖だけを回避しても、世界中が冷酷になる。僕らは死が怖いから自殺を思いとどまるし、死が怖いから死にそうな人を助けるのだ。
どうあがいても死に抗えないので、諦めて死の絶望を忘れるぐらい生を充実させよう、と思い立ったのが高校最後らへんだ。
でも、こないだ川上量生氏のブログを拝見して、衝撃を受けた。
http://kawango.hatenablog.com/entry/2019/01/18/072502
超簡単に強引にまとめれば、
①近年の機械学習の研究の爆発的な発展を眺めていて、人間の直感や創造性、感情や意識にいたるまで、意外と簡単な原理でモデル化できそう
②そして、人間の知性はそのモデルを使って、社会の知性を部分的にコピーしたにすぎない
③その認識が周知した時、以下の3つの進化が起こりうる(詳細はブログに)
・遺伝子の組み替え
・人体のサイボーグ化
・脳の機能をコンピュータに置き換える
④その進化が終わった時はもはや人類ではないので、今存在する自分たち人類の歴史をそんなに急がなくてもいいのではと思う。
という話なのだが、これ生と死の二項対立が壊れるのである。
まず、実証はないのだが、僕は生物の意識と人工知能に大きな差はないと思っている。
物理的・情報的・化学的入力を受けて、出力を出す。
その一連の動作を認識の外に置いて、効率的に様々な処理ができるようになった代わりに「自分には自我がある」ということにして勝手に動く体をごまかしたのが人間という種だろう。
すごくおぼつかないが、少なくとも「魂」だとか「脳で生じる新しい物理現象」だとかよりはるかにこう考える方が僕にとっては腑に落ちる。
まぁだからと言って、僕は普通に痛いものは痛いし、面白いものは面白いし、考える時は考えるので、それが本当でも大した影響はない。
ただ、これを踏まえてブログを考えるとやばい。
上記ブログの中で
VR社会でAIアバターに知性を代行・媒介しうるし、それは知性の外部化だ。これが進めば段階的に脳はコンピュータに置き換わる。
とされているが、示したような自我の構造を把握し、徐々に段階的に外部化できるのであれば、僕らは自我を保ったまま外部化されうるのである。
そうなればネットワーク上で永遠に生きることもできるのだが、それだけではない。
例えば自我をコピーしたり、誰かの記憶をインプットしたり、辛い記憶を消したり、もうなんでも出来るのである。
死が恐ければネットワーク上にいればいいし、永遠に生きたくなければ記憶を無くせば良い。記憶をなくすルールを作ったりして、工夫すれば死の恐怖の回避で失われる社会の暖かさ(?)を保ったまま、生と死がコントロールできるのである。
もちろん穴だらけで、恐ろしく、不可逆的で、飛躍した発想であることは重々承知である。ただ、この空想が自分の中であり得ること自体、僕の人生の中で異例なことなのである。
僕は死に対する諦めを撤回したくなっている。
ただ、もちろん仮にそんな未来があり得てもなお、生的なものを「期間限定の貴重な代物である」とか、逆に「期間限定のたわいもない代物である」と見るかは各自次第だけれど。
(僕は前者の立場なので、快楽主義は変わらない。)
空想から未来が生まれる。
僕が空想できることなら、もっと優秀な誰かはとっくに思いついている。
生と死の二項対立が崩れる日は来るのだろうか。