平和(へいわ)な日本(にほん)では表面的(ひょうめんてき)なニュースしか流れて(ながれて)こないため、あまりピンとこない人(ひと)もいがいに少なくない(すくなくない=おおい)かもしれませんが、こどもに聞かれた(きかれた)ので「なぜ、香港(ほんこん)でこのようなことが起こって(おこって)いるのか?」ちょっと書いて(かいて)みたいと思い(おもい)ます。
※こどもに読み(よみ)やすいように、わざと分かり(わかり)やすい言葉(ことば)や「よみがな」をおおく使って(つかって)います。
大人(おとな)のかたは、読み(よみ)づらいかもしれませんが、あしからず(=わるくおもわないで)。
香港政府(ほんこんせいふ)にたいする抗議活動(こうぎかつどう=はんたいうんどう)で学生(がくせい)や市民(しみん)のデモ隊(たい)と警察(けいさつ)の衝突(しょうとつ)が激しさ(はげしさ)を増す(ます)なか、香港理工大学(ほんこんりこうだいがく)に立て(たて)こもったデモ隊(たい)と警察(けいさつ)が衝突(しょうとつ)し、11月20日までに1200人以上(せんにひゃくにんいじょう)の逮捕者(たいほしゃ)が出て(でて)いますが、11月21日になってもまだ数十人(すうじゅうにん)が籠城(ろうじょう=たてこもること)を続けて(つづけて)います。
香港(ほんこん)の場所(ばしょ)はこの地図(ちず)をみてね。
なぜ、こんなことになっているのか?というと、香港(ほんこん)が犯人(はんにん)引き渡し(ひきわたし)の協定(きょうてい=やくそくみたいなきめごと)を結んで(むすんで)いない地域(ちいき)から容疑者(ようぎしゃ=はんにんとおもわれるひと)の引き渡し(ひきわたし)を求め(もとめ)られた場合(ばあい)、それに応じる(おうじる)(=ひきわたす)という逃亡犯条例(とうぼうはんじょうれい)を香港(ほんこん)政府(せいふ)が決め(きめ)ようとしていることにたいして、香港市民(ほんこんしみん)は、政府(せいふ)に批判的(ひはんてき)な人(ひと)が政府(せいふ)の都合(つごう)で捕まえる(つかまえる)ことができるのではないか?という恐れ(おそれ)から大きな(おおきな)デモになっています。
香港(ほんこん)は実(じつ)は大きく(おおきく)「3つ」に分かれて(わかれて)います。
1842年の南京条約(なんきんじょうやく)で清国(しんこく=いまのちゅうごく)からイギリス領(イギリスりょう=イギリスのものになること)になった島(しま)
香港島(ほんこんとう)の対岸(たいがん=むかいのきしにあること)にあり、1860年の北京条約(ぺきんじょうやく)でイギリス領(イギリスりょう=イギリスのものになること)になった地域(ちいき)
1898年の展拓香港界址専条(てんたくホンコンかいしせんじょう)でイギリスに99年間(ねんかん)の期限(きげん)で租借(そしゃく=ほかの国(くに)にかしあたえること)された地域(ちいき)
なんだか南京条約(なんきんじょうやく)とか、北京条約(ぺきんじょうやく)とか難しい(むずかしい)言葉(ことば)がでてきましたが、これからもう少し(すこし)くわしく書いて(かいて)いきますね。
むかし香港(ほんこん)は、中国(ちゅうごく)がイギリスに戦争(せんそう)で負け(まけ)、イギリスの植民地(しょくみんち)(※1)だった時代(じだい)があります。
(※1)植民地(しょくみんち)~ほかの国(くに)から支配(しはい)されること=ジャイアンが力(ちから)づくで、ほかのこどもをけらいにするようなもの
その当時(とうじ)、清国(しんこく=いまのちゅうごくのこと)はイギリスにお茶(おちゃ)や綿織物(めんおりもの)(※2)を大量(たいりょう)に輸出(ゆしゅつ=ほかの国(くに)に売る(うる)こと)していましたが、イギリスが清(しん)に輸出(ゆしゅつ)していた綿織物(めんおりもの)は清(しん)に需要(じゅよう)がほとんどなかったため(=ほしいとおもわなかったため)、イギリスの貿易赤字(ぼうえきあかじ)は膨らむ(ふくらむ)一方(いっぽう)で、その支払い(しはらい)のためにイギリスから清(しん)に大量(たいりょう)の銀(ぎん)が流れて(ながれて)いきました(※3)。
(※2)綿織物(めんおりもの)~木綿 (もめん) でつくられた布(ぬの)せいひん。
(※3)当時(とうじ)はお金(かね)のかわりに、銀(ぎん)でしはらっていました。
おもしろくないイギリスは、インドで栽培(さいばい)されていたアヘン、いわゆる麻薬(まやく)を清(しん)に大量(たいりょう)に輸出(ゆしゅつ)します。これにより状況(じょうきょう)は一転(いってん=ガラリとかわること)。
もともと清(しん)ではアヘンを吸う(すう)習慣(しゅうかん)があったことやアヘンには常習性(じょうしゅうせい=やめたくてもやめられないこと)があり、アヘンを吸う(すう)人(ひと)がとても多く(おおく)なり、国(くに)はおおきく乱れ(みだれ)ます(※4)。
(※4)よく有名な人(ゆうめいなひと)が大麻(たいま)や覚せい剤(かくせいざい)などの麻薬(まやく)で捕まって(つかまって)ニュースになっていますが、こうした歴史(れきし)もあり、麻薬(まやく)は日本(にほん)では法律(ほうりつ)で禁止(きんし)されています。
話(はなし)はすこしそれましたが、イギリスは清(しん)には売れなかった(うれなかった)綿織物(めんおりもの)はインドに売り(うり)、インドでつくったアヘンを清(しん)に売り(うり)、イギリスでよくのむお茶(おちゃ)は清(しん)から買う(かう)という三角貿易(さんかくぼうえき)をすることで大きく儲け(もうけ)を出しました。
それにひきかえ、清(しん)はアヘンでボロボロになった人(ひと)たちであふれ、貿易赤字(ぼうえきあかじ)になり、イギリスに大量(たいりょう)の銀(ぎん)で支払い(しはらい)がふえ、清(しん)は財政難(ざいせいなん)(※5)に陥って(おちいって)いきます。
(※5)財政難(ざいせいなん)~おかねがなくなり、びんぼうになること。
そこで困った(こまった)清(しん)はアヘンの取締り(とりしまり)を強化(きょうか)し、アヘン貿易(ぼうえき)も厳しく(きびしく)禁止(きんし)しようとしますが、それに反発(はんぱつ)したイギリスは1840年にアヘン戦争(せんそう)をしかけます。
その結果(けっか)、清(しん)は戦争(せんそう)に負け(まけ)、さきほど説明(せつめい)した
・1860年の北京条約(ぺきんじょうやく)で九龍(クーロン)がイギリス領(イギリスりょう=イギリスのものになること)になり、
・1842年の南京条約(なんきんじょうやく)で香港島(ほんこんとう)がイギリス領(イギリスりょう=イギリスのものになること)になり、
・1898年の展拓香港界址専条(てんたくホンコンかいしせんじょう)で新海(しんかい)が99年間(ねんかん)はイギリスのものとなるのです。
香港(ほんこん)は、イギリスの植民地(しょくみんち)=支配下(しはいか)になってから、イギリスの資本(しほん=お金(かね)や人(ひと))がたくさん入り(はいり)、大きな(おおきな)経済発展(けいざいはってん)を遂げ(とげ)ます。
第二次世界大戦(だいにじせかいたいせん)のときには日本(にほん)がイギリスに勝ち(かち)、香港(ほんこん)は日本(にほん)の支配下(しはいか=ジャイアンのけらいのようなもの)だった時代(じだい)もありますが、1945年に日本(にほん)が戦争(せんそう)に負ける(まける)と中国(ちゅうごく)は香港(ほんこん)の返還(へんかん)を求め(もとめ)ます。しかし、イギリスはこれを無視(むし)して香港統治(ほんこんとうち)を宣言(せんげん)(※6)します。
(※6)香港(ほんこん)は、じぶんのものだ!といいはること
最終的(さいしゅうてき)にアメリカの仲介(ちゅうかい=あいだにはいり、うまくいくようにすること)もあり、香港(ほんこん)はふたたびイギリスの支配下(しはいか)になります。
1898年に約束(やくそく)していた新海(しんかい)を中国(そのとうじは中華人民共和国(ちゅうかじんみんきょうわく)といいましたが、これいこうはちゅうごくと書き(かき)ます)へ返還(へんかん=かえす)する期限(きげん)が迫る(せまる)なか、イギリスは香港(ほんこん)を引き続き(ひきつづき)イギリスの支配下(しはいか)におこうとしますが、これに中国(ちゅうごく)がつよく反発(はんぱつ)し、イギリスは折れる(おれる)かたちで(しかたないとあきらめること)、1984年に中英共同声明(ちゅうえいきょうどうせいめい=ちゅうごくとイギリスのあいだのやくそく)で1997年7月1日に中国(ちゅうごく)に香港(ほんこん)を一括返還する(いっかつへんかんする)=新海(しんかい)だけでなく、香港島(ほんこんとう)、九龍(くーろん)もすべてかえすことが決まり(きまり)ます。
それから中国(ちゅうごく)の支配下(しはいか)になることで自由(じゆう)がなくなることを恐れた(おそれた)人(ひと)たちは他の国(ほかのくに)、カナダやオーストラリアへ逃げ(にげ)だしました。
そんななか天安門事件(てんあんもんじけん)がおこります。
中国(ちゅうごく)北京(ぺきん)の天安門広場(てんあんもんひろば)で民主化(みんしゅか)を訴える(うったえる)学生(がくせい)や市民(しみん)を止め(とめ)ようと中国政府(ちゅうごくせいふ)は戦車(せんしゃ)や軍隊(ぐんたい)を送り(おくり)、このとき多くの人(おおくのひと)が死んだり(しんだり)ケガをしました。
※香港(ほんこん)のデモが第二(だいに)の天安門事件(てんあんもんじけん)になるのではないかと言われているののはこのことです。
その後(ご)、いろいろありましたが、最終的(さいしゅうてき)に1997年、香港(ほんこん)は中国(ちゅうごく)に返還(へんかん)されますが、返還前(へんかんまえ)の約束(やくそく)で香港(ほんこん)は特別行政区(とくべつぎょうせいく)となり、その後(ご)50年間(2047年まで)、香港(ほんこん)は資本主義(しほんしゅぎ)をゆるされ、社会主義(しゃかいしゅぎ)の中国(ちゅうごく)と異なる(ことなる)制度(せいど)がとられることになりました。
このことを一国二制度(いっこくにせいど)と言います(いいます)。
2014年、天安門事件(てんあんもんじけん)以降(いこう)おきた大きな(おおきな)民主化要求(みんしゅかようきゅう)デモの一つ(ひとつ)。
2017年3月の香港行政長官(ほんこんぎょうせいちょうかん)を決める(きめる)選挙(せんきょ)から民主派(みんしゅは)の候補者(こうほしゃ)を選ばない(えらばない)ことを2014年8月31日に中国政府(ちゅうごくせいふ)が一方的(いっぽうてき)に決めた(きめた)ことに反発(はんぱつ)した若者(わかもの)を中心(ちゅうしん)とした香港市民(ほんこんしみん)たちのデモ隊(たい)が香港警察(ほんこんけいさつ)の催涙(さいるい)スプレーから身を守る(みをまもる)ため、傘(かさ)を使った(つかった)ことからイギリスメディアが中心(ちゅうしん)となって雨傘運動(あまがさうんどう)と呼び(よび)ました。
デモ隊(たい)は「候補者(こうほしゃ)に制限(せいげん)を設け(もうけ)ない、うそのない普通(ふつう)の選挙(せんきょ)」を求めて(もとめて)抗議(こうぎ)しましたが、強制排除(きょうせいはいじょ=ちからづくでとりのぞくこと)されました。
中国(ちゅうごく)は社会主義(しゃかいしゅぎ)の国(くに)ですが、香港(ほんこん)はイギリスの影響(えいきょう)で、同じ(おなじ)中国(ちゅうごく)のなかでも日本(にほん)のように資本主義社会(しほんしゅぎしゃかい)と民主的(みんしゅてき)な自由(じゆう)を望む(のぞむ)人(ひと)たちがひょうじょうに多い(おおい)地域(ちいき)なので、たびたび政府(せいふ)と市民(しみん)の間(あいだ)で衝突(しょうとつ)がおこっています。