香港で展開されている「逃犯条例」修正案に対する大規模な抗議活動は、収束への道筋が見えないままに長期化しています。
僕自身は期待も込めて、1か月程度で収束に向かうだろうと考えていましたが、悲しいことにそうはならず、事態は深刻化しているように感じます。
香港の抗議活動を巡って起きていることを俯瞰的に理解するためには、さしあたって倉田徹さんの以下の記事が参考になります。
記事の視点はレームダック化した政府の限界に重点を置いた内容になっていますが、他方で、抗議活動自体も「着地点」が見出せないまま、活動の拡大がなし崩し的に展開してしまっているように見えます。
僕は以前に、香港が「decentralized」な都市なのではないのかな?という記事を書きました。
この記事のなかで、香港の経済的な役割についてこんなふうにまとめました。
政府が香港に役割を与えたというのではなく、香港に住む人々や香港に集まる人々がそれぞれに動くことによって、香港という都市がそうした役割を持つようになっていった、と言えるかと思います。
歴史的に、香港社会は中央集権的に形成されてきたという経験を持っていないというところから、香港は「decentralized」な都市なのかも…とイメージしたわけです。
この記事は1年以上前に書いたものですが、僕の香港社会に対するこうしたイメージは今でも変わっていません。
それどころか、今回の抗議活動の展開を受けて、より強くこうしたイメージを持つようになってきました。
なぜかというと、この抗議活動はまさに「decentralized」な形で展開されていると感じたからです。
というのも、この2か月超におよぶ抗議活動には、一連の活動全体を統括する具体的な「リーダー」がいません。
6月に展開された街頭での抗議パレードなどには主催者がいましたが、事態の長期化に即して拡散する活動は、単一の主催者によってコントロールされているわけではないようです。
これは、政府側からすれば明確な「交渉相手」がいないことを意味します。
言いかえれば、政府が交渉するべき相手は本当の意味で「香港市民」だということになるわけですが、このことが事態の収束を難しくしている要因のひとつだもいえます。
こうした事態に直面してもなお、香港はこれまで、香港の人々自身の力によって社会を成り立たせ続けてきたので、今回もそのような解決方法が模索されているはずだし、そのように解決されることを僕自身は信じています。
ただ、「一国二制度」を香港とマカオに敷いている中国のもとで、中央集権的な中国政府の介入が危惧されるような状況に直面していることも事実です。
そんななかで、香港の人々のあいだに死傷者が出ているうえに、社会の「分断」も進んでしまっているように感じられます。
この2か月のあいだに、香港の人々が心にどれほどの傷を負ったのかということを思うと、「decentralized」な形で展開する抗議活動の行く末を危惧します。
この経緯を、香港に友人がいる状況で日本から眺めながら、「decentralized」な社会が持つ脆弱な側面を思わずにはいられませんでした。
ALISをきっかけにブロックチェーン・仮想通貨の世界をより深く知ることになった僕は、「decentralized」な社会への可能性を熱く語る人たちの言葉に触れてきました。
その可能性に僕も期待を寄せてはいますが、今、香港で起きていることを思うと、「decentralized」な社会が持つネガティブでナイーブな側面をありありと見せつけられているような気持ちになります。
「decentralized」な社会が多くの人々を救う可能性があるとしても、その実現に至るまでのあいだに、今を生きる人々が受けなければならない「傷」が大きすぎるのではないか?
「decentralized」な社会は、事態が深刻なレベルにまで達したときに人々を救うことができるのか?
「decentralized」な社会は、本当に人々が主体的に社会を支え、多くの人々が主体的に幸せになることができるのか?
いくつもの疑問が、頭のなかを行きつ戻りつしていきます。
僕は香港社会の歴史から「decentralized」な社会の可能性と主体性を信じていますが、「decentralized」な社会のありようを理想的だと信じる人たちは、今の香港で起こっていることをどのように眺め、どのように考えているのでしょうか?
僕はこのような視点から、真摯に教えを請いたいと思います。