『いろは歌』の成立
さて、視点を変えて『いろは歌』の成立について考えてみましょう。現存する最古の『いろは歌』は、承暦3年(1078)に書写された『金光明最勝王経音義』に見られます。つまり『いろは歌』成立の下限は承暦3年ということになります。
それでは上限はいつになるのでしょうか。これは、『いろは歌』が47字より構成されていることに注目すると、答えが見えてきます。
「音義」というのは、特定の漢籍や仏典の中から、難しい文字や問題のある文字を拾い出して、それぞれに発音や意味の説明を加えたもので、『金光明最勝王経音義』は『金光明最勝王経』についての音義ということになります。
『金光明最勝王経音義』では、漢字の音を表すため、『いろは歌』が登場します。つまり、漢字の音を区別するため四十七文字必要であったということで、日本では47音の区別が始まった時代、これが『いろは歌』成立の時期の上限といえます。
この時期の特定については、日本語史よりアプローチがされており、方法論の違いはあっても、大矢透氏、小松英雄氏ともにおおむね西暦970年以降といわれています。
さて、そうなると『いろは歌』の作者は誰なのでしょうか。
『いろは歌』の作者として、もっとも一般的に知られているのは、弘法大師説でしょう。弘法大師説が浸透した理由として次の二点が考えられます。
1. いろは歌の内容は、仏教の悟りの境地を暗喩するものである
2. 仮名が重複しないという厳しい制約のもとこれほど優れた内容を読み込んでいる
また真言宗では、古くから学問的用途に『いろは歌』を用いてきた経緯もあり、弘法大師作の説を支持する土壌ができたのでしょう。
しかし、『いろは歌』の成立年代から考えて、弘法大師説は成り立ちません。そもそも、『いろは歌』は弘法大師でなければ作り得ないものなのでしょうか。
明治時代の日刊紙『萬朝報』で、「国音の歌」を募集しました。これは、『いろは歌』の47字に「ん」を付加した48字で作る、新しい『いろは歌』を作ろうという試みでした。
それに対し、応募総数はなんと10,000通以上、最優秀賞には坂本百次郎による「とりなくこゑす」が選ばれました。
とりなくこゑす ゆめさませ 鳥鳴く声す 夢さませ
みよあけわたる ひんがしの 見よ明けわたる 東の
そらいろはえて おきつへに 空色映えて 沖つ辺に
ほふねむれゐぬ もやのうち 帆舟群れ居ぬ 靄のうち
「ん」が付加されたことで、七五調が整ったこともありますが、それ以上に早朝の船着き場の様子が目に浮かぶ素晴らしい詩ではないでしょうか。『いろは歌』に勝るとも劣らないといっても過言ではないでしょう。
また小松英雄氏は19位に選ばれた菱沼倉四郎の作品も取り上げています。
そたひもえちる ゐろりへに 粗朶火燃え散る 囲炉裏辺に
しつのよさむを なけくみゆ 賤の夜寒を 嘆く見ゆ
めこおとうゑて かほやせぬ 女子弟飢ゑて 顔痩せぬ
あはれきいねん わらふすま 哀れ着寝ねん 藁衾
こちらは古文に近く、格調の高い出来になっています。貧しい親子の悲哀を描く様は、まさに『貧窮問答歌』のようです。
「国音の歌」の募集期間はたったの5ヶ月であり、これだけの作品が寄せられたと考えれば、真剣に取り組めば『いろは歌』の水準のものを制作することは可能なのかも知れません。ちなみに最優秀賞の「とりなくこゑす」の作者である坂本百次郎は、数学の教師でありました。
再び『いろは歌』に話を戻しましょう。『いろは歌』を7字ずつの韻文として並べてみると、ある言葉が浮かびあがると指摘されています。
いろはにおへと
ちりぬるをわか
よたれそつねな
らむうゐのおく
やまけふこえて
あさきゆめみし
ゑひもせす
この韻文の末の後を一字ずつ拾うと次の一文が出てきます。
とかなくてしす
咎無くて死す
「咎無くて死す」とは、悪い行いをすることも無く清らかなまま死ぬ、ということ。
『いろは歌』の内容を、たった一言に凝縮した言葉だと思いませんか。また『無常偈』最後の句「寂滅為楽」の趣意とも一致します。
これは偶然なのか、それとも意図して用意されたものなのか。その判断はつきかねますが、「咎無くて死す」の存在は常識として認知されていたようです。
赤穂浪士の討ち入りで有名な『忠臣蔵』ですが、もともとの名前は『仮名手本忠臣蔵』。「仮名手本」とは『いろは歌』のこと。つまり、「咎無くして罪をうけた赤穂四十七士」をいろは47字に引き当てたものです。
「咎無くて死す」が『いろは歌』作者の意図したものであったにしろ、偶然のものであったにしろ、『いろは歌』の中にその一文がある事実は変わりません。小松英雄氏は「たまたまこのような結果になった」と判断されていますが、「咎無くて死す」という一文があるからこそ、『いろは歌』が思想としても完成され、支持されたのだと思います。