大学生の時、同じゼミの女子たちと名古屋の栄地下を歩いていました。教育学部は6割が女子だったのです。その時、後ろの方で「キャッ!」という声が聞こえました。振り返るとオジサンがダッシュで逃げていくのが見えました。どうやら、女子の一人が尻を触られたようでした。つまり、痴漢。気づいた時にはオジサンは見えなくなっていました。
その時に思ったのです。
「これが彼女とデートしていたらどうなるのだろう?」
誰もいない場所で相手が居直ったら腕に自信がない。
「格闘技のひとつも知っていないとダメかなぁ・・・」
と、ボンヤリ考えていました。
私は「あしたのジョー」や「柔道一直線」で育った世代。「空手バカ一代」の大山倍達さんのように強かったら痴漢など怖くない。ちょうど、その頃に「燃えよ、ドラゴン」のブルース・リーを見てしまいました。映画は好きでしたがアクションは擬闘や殺陣と呼ばれてニセモノでした。
ところが、ブルース・リーは全く違っていました。それは、彼は本物の格闘家だったからです。見た目は空手のようでしたが「カンフー」という中国の格闘技らしかった。彼は後に「ジークンドー」という独自の格闘技の始祖になりました。
名古屋大学には空手部、少林寺拳法部、日本拳法部の3つの似たような格闘技部がありました。少林寺拳法が一番、ブルース・リーのカンフーに近いように見えたので少林寺拳法部に入部しました。
大学時代は四国の多度津にある少林寺拳法の総本山に合宿に行ったり、阪大で七帝戦があり京大の副主将にコテンパンにやられたり楽しい思い出がたくさんあります。当時の人気番組の「TVジョッキー」に出演してジャッキー・チェンの前で拳法を披露したこともあります。
それが、これ 👇 (2:00から)
(2) ジャッキーチェンが「TVジョッキー」に出た時のお宝動画 - YouTube
アメリカのユタ州、ローガン中学校で教師をしているときは、学校祭のときに舞台の上でヌンチャクやら拳法やらを披露してヒーローになれました。
ところで、年齢を重ねるにつれて少林寺拳法に対する考え方が少しずつ変化してきました。もはや、痴漢くらいならコテンパンにやっつけられるでしょう。ただ、テレビドラマのように手加減などできません。股間を蹴り上げるだろうし、目玉に指を突っ込むかもしれない。
ところが、それは刑法の過剰防衛にあたりそう。私はSP用の鋼鉄製の警棒を持っているので、これで相手の頭部を全力で殴ったら死んでしまいそうです。つまり、拳法の技術は日本の平和な生活の中ではほとんど無用の長物と言えます。
そもそも人間の手足はモノを掴んだり、歩いたりするためのもの。人を殴ったり、蹴ったりするためのものではありません。クリスチャンになって、塾講師を始めた頃から考えるようになりました。
「悪い生徒はぶん殴って良い生徒を守るべきか。クリスチャンらしく許すべきか」
若い頃の私は悪い生徒にビンタを何発かくらわせたことがあります。
世の中は、話せば分かる人ばかりではありません。世界には話せば分かる国家ばかりではありません。だから、警察や軍隊が存在する。時には力で制圧することも必要でしょう。
(2) キョウダイ・セブンの棒術、ヌンチャク技 - YouTube
しかし、人は歳をとる。私も還暦をすぎた。👆 どんなに訓練を積んだアスリートでも年齢を重ねると身体の柔軟性もキレもなくなってゆく。格闘技で一番強いのは20代であって、いくら段位が上がっても60代では20代の格闘家にはかなわない。
「燃えよ、ドラゴン」の中でラスボスのハンは切り落とした手首に熊の手を模した金属製の爪を義手としてリーに闘いを挑む。そう、人間はいくら鍛えても熊のような爪を持つことは出来ない。どんなに鍛えようとライオンの牙にはかなわない。だから、銃を発明したわけだ。
してみると、格闘技とは何のためのものだろう。
精神的な面はどうか。少林寺拳法を習った人は以下の「聖句」「誓願」を一度は暗記したはずである。始祖、宗道臣の考え方を反映しているのだろう。
聖句
己れこそ、己れの寄るべ、己れを措きて誰に寄るべぞ、良く整えし己れこそ、まこと得がたき寄るべなり
自ら悪をなさば自ら汚れ、自ら悪をなさざれば自らが浄し、浄きも浄からざるも自らのことなり、他者に依りて浄むることを得ず
誓願
一、 我等此の法を修めるに当り、祖を滅せず師を欺かず、長上を敬い、後輩を侮らず、同志互に親み合い援け合い、協力して道の為につくすことを誓う。
一、 我等一切の既往を精算し、初生の赤子として、真純単一に此の法修行に専念す。
一、 此の法は、済生利人の為に修行し、決して自己の名利の為になすことなし。
少林寺拳法は、その名の示すごとく仏教の考え方が色濃い。私はクリスチャンだけれど、自分の中で矛盾はしていない。道徳的に正しい生き方をしている人は、特に気にしなくても自然に上記の「聖句」「誓願」は守っているだろう。
結局、格闘技とは「二本の手と足で敵対する相手に効果的な打撃を与える技術」ということだろう。技術だから究極まで鍛えると、それだけで美しい。ただ、スポーツとは異なる。私は中学時代は器械体操をやっていたが、鉄棒や床運動は日常生活に何の関係もない。
しかし、格闘技はあるレベルを超えると日常生活の中で暴力で相手を思いのままにしようという輩の横暴に屈しなくてもよくなる。私は相手が大声で恫喝しても全く気にならなくなっている。ただし、自分より強そうな相手とは格闘は避ける。勝てる喧嘩しかしてはいけない。
人間は誰も心に闇を抱えている。自分を攻撃してくる人には、
「この野郎!!」
と10倍返しをしたくなるのが人間なのだ。私も自分を攻撃してくる奴は5倍返しくらいにしている。
クリスチャンのように
「右の頬をぶたれたら、左の頬を出せ」
を実践する人はいないだろう。そもそも、この聖書の言葉は誤解されている。下の話を読んでほしい。
「右の頬を殴られたら左の頬を差し出せ」――これは新約聖書内『マタイによる福音書』第5章に登場する、有名なイエスの言葉である。同じく新約聖書内『ルカによる福音書』に登場する「汝の敵を愛せ」という言葉同様、敵を許し仕返しをするな、という教えに相違ない。
全人類の罪を背負い、その身代わりとして人々の救いのため自ら十字架にかけられたというイエスが説くキリスト教が、「慈悲と許しの宗教」であるということを象徴する言葉でもある。
しかし、である。「右の頬を殴られたら左の頬を差し出せ」という言葉について、もしも自分が殴る側だったらと想定して、今一度よく考えてみていただきたい。筆者の知人で米・ハーバード大学への留学経験があるAさんは、在学中に講義の場で、この言葉について驚くべき解釈を教えられたと語る。
■手のひらで左頬を殴ることの意味
Aさん 「憎い相手を想像してみてくださいよ。利き手の右手で普通に相手を殴ったら、右でなく左の頬に当たりませんか?」
確かに! 聖書を読むだけでは、なかなか気づかない人が多いだろう。実際によく考えてみれば分かることだが、右手でとっさに誰かを殴るとなると、相手の右頬に当てることは難しい。
Aさん 「そうなんです。無理でしょ? 相手の右頬を殴りたければ、やりやすいのは手の甲、つまり裏拳です。昔は、卑しい身分の奴隷を殴る時、手のひらで殴ると『手が汚れる』と考えられていたため、裏拳で殴っていたんです」
なるほど! それなら確かにつじつまが合う。
Aさん 「でも、ここからが本題ですよ。右頬を裏拳で殴られた相手が、イエスの教え通りに左頬を差し出したとします。でも、裏拳では無理ですよね? 今度はキレイな手のひらで殴らざるを得ない。そこで主人が、右の手のひらで奴隷を殴ったとしましょう。するとそれは、今までの関係が変わった、ということを意味するのです。『主人と奴隷』の関係から、『対等』になってしまうのです。この事実は、殴る主人の側にとって大変屈辱的なことなのです。実は、ここに真意があるんです」
なんと!! 暴力を用いることなく、主人にここまで巧妙に屈辱を与えるとともに、自らの立場を変える方法がほかにあるだろうか! ガンジーの「非暴力不服従運動」にもつながる精神を感じる。そう、イエスは何も「奴隷のままでいて、全てを受け入れ、現世では我慢するように」などと言っていたわけではなく、"平和的な闘い方"を教えていたのだ。
私は少林寺拳法の突きや蹴りの練習をする時に、当面の敵を想定して
「ぶっ倒す!」
と念じている。自分の中の黒い部分を受け入れている。人間は闘い続けないと、闘争心を失うと生きるエネルギーを失う生き物だと思う。