私はクリスチャンです。アメリカ滞在中に改宗しました。
今の日本で「神様を信じる」と言えば「どうかしている」と言われるのがオチだろう。ITが全盛でコンピューターが神の如く思われている時代だ。科学をまったく知らない無知な人間だと思われそう。
私が神様を信じるに至った経緯は文字にはできないほどの出来事があったからなのだ。ここでは、文字にできる範囲で書かせてもらいます。
最初に神のことを意識したのは、四日市高校の図書館でアインシュタインの書物「晩年に想う」を読んだときのことだ。読んでいるうちに鼻の奥からミントの香りがツーンときたことを強烈な印象として記憶している。
「物理学の天才が神を信じるのは矛盾ではないのか?」
この疑問を持った。
ところが、調べてみるとアインシュタインばかりか、天動説を唱えたコペルニクスとガリレオ、物体の運行を万有引力の法則で説明したニュートン、量子力学を創ったボーアやハイゼンベルク、シュレーディンガー。物理学者たちの多くが神の存在を強く意識していた。
なぜなんだろう?
私は名古屋大学の教育学部を卒業した文系の人間だ。だから、生徒に数学Ⅲの指導を求められたので苦労して独学した。オリジナル、1対1,チェック&リピート、赤本をそれぞれ2周した。よく言われるように2000題ほど解いたら高校数学をマスターできるというのは本当だった。それは、京都大学の二次試験を50代で受けて確認した。7割ほどの正解率だったからだ(合格レベル)。
10年くらい数学漬けの生活をしているうちに周囲を見る目が変わってきた。町を走る車も、見上げた星もすべてデタラメに動いているわけではないのだ。数式で表現できる法則に従って動いている。この世界はカオスの世界ではなく、背後に巨大な設計図が存在しているらしい。数学とは、その背後にある法則を見つけていくことらしい。
では、
「その設計図を描いたモノは何者なんだ?」
何も理系的な発想だけではない。文学の巨匠と言えば夏目漱石だろうか。世界に目を向けるとシェークスピアだろうか。そのような巨匠の作品も50年も経てば色あせて歴史の闇に消えてゆくのが普通だ。
ところが、聖書は2000年経っても古びない。それも、国境や文化を乗り越えて浸透していく。今までに2000年もベストセラーであり続けた書物はあっただろうか。紫式部の源氏物語は1000年ほど前の書物だけれど、もはや内容が古すぎるし共感しにくい。文化が日本的すぎて国境を超えるのは難しい。
では、どうして聖書はいつの時代も、どんな国の人の心を打ち続けられるのだろうか?そのような書物を人間に書くことはできるのだろうか?多くの人が今も昔も「おかしい」と感じて調査・研究を続けている。
私は落ちこぼれのクリスチャンだと自覚しているけれど、タバコを吸わない、アルコールを飲まない、姦淫をしないなどキリスト教徒として最低のラインを守ろうとしてきた。私の塾に女子生徒が多いのは偶然ではないと思っている。
もちろん、急病を患ったり、バツイチになったり、相続でもめたり、近所づきあいでトラブルになったり、誰でも出くわす日常的な問題は一通り経験してきた。神様を信じれば、平穏な生活が訪れるわけではない。しかし、私はそのトラブルも自分を成長させてくれたと信じている。
ただ、私は危機に陥ったときにいつも切り抜けられた。
「神様は乗り越えられる試練しか与えられない」
と、信じるに足る経験を多く重ねてきた。
私は他人に自分の経験は語っても、強要はしない。神様を信じて生きていると人生の輝きを増すという事実。確率99%以上で神が存在する確信を(求められたら)話すだけだ。