2022.1.27 栃木方面へ神社参拝に出掛けました。
東北自動車道・館林IC手前。日光男体山がキレイに見えていました。
館林・城沼 白鳥が居ましたよ。他の鳥も観察したかったのですが風が強くて寒くて断念しました。
何気なく城沼のカモを撮った写真。なんとお初のホシハジロ♂でした^^
ここからも日光連山(男体山・大真名子山・女峰山)2300~2400mの山々がキレイに見えていました。
こちらは筑波山
太平山神社・大鳥居 栃木市中心部からほぼ南西方向の太平山へ真っすぐに道路が伸びています。
あじさい坂の下の駐車場に車を停めて参道へ。
大型バイクのおじさんが転倒してバイク起こしの手伝いを。道路が傾斜していたからか、いや~重かったっす。
参道階段手前の大平山連祥院
太平山連祥院は、天長四年(八二七年)慈覚大師円仁により創建。
六角堂
明治期以前まで太平山は、神仏が混在しており、山上には慈覚大師円仁が創建した太平大権現社、当山のご本尊虚空蔵菩薩を安置した本地堂、釈迦堂、大日堂等の堂宇が並び、下に仁王門(現在は随神門。当時は連祥院の仁王門でした。現在でも裏側に仁王さまが安置してあり、かつて寺院として栄えた頃を偲ばせる建造物です。)そして、あじさい坂のわきには、三光院、多聞院、法泉院、報恩院等の寺院がありました。
あじさい坂の表参道を上ります。1000段あるようですよ。
途中に弁財天がありました。
だいぶインスタ映えしそうです(笑)
銭洗弁財天・窟神社
中を覗き込むと祠が・・・
ググってもこの水を湛えた洞窟については良く解りませんでした。数キロも続いているとか、誰も誰も入ったことがないとか・・・・定かではありません。
盛り感はありますが、とても良い場です。水の流れや風鈴の音が更に良い空気・空間を醸し出していました。
南北朝時代(1337年 – 1392年)の石板の供養塔婆 ずいぶん古い板碑ですね。
天皇の皇位系統が二つに分かれた時代のものですね。。
蛇頭の滝 ん?
白ヘビ ~>゜)~~~ でした^^ さて、また階段参道を登ります。
「太平宮」と書かれた鳥居が現れました。
更に参道階段を上ります。
門が見えてきました。
この随神門(ずいしんもん)は太平山神社の神門であり、享保8年(1723)、徳川八代将軍吉宗公によって建築されました。表には左大臣・右大臣、後ろに仁王を配しています。仁王像が配されているのは、太平山が江戸時代までは社寺の山として栄えていた名残です。
天井の龍の絵は、第14代将軍家茂公の時代の五楽院法眼等随の筆で、雲を起こして昇天した龍が空高く舞い遊ぶ様子が描かれています。建築方法は「入母屋造り扇垂木」で俗に傘(からかさ)天井と呼ばれます。http://www.ohirasanjinja.rpr.jp/guid/より
門の天井の龍画 かなり薄かったのでコントラストを上げました。
門をくぐった後に現れた最後の鳥居。
この鳥居の扁額には「三光神社」と書かれています。三光とは日・月・星を顕しています(後ほど説明します)。
この最後の門もとても重量感があります。
拝殿
太平山神社の主祭神であるニニギ、アマテラス、トヨウケヒメをお祭りしています。
宝暦元年の記述では、旧号は「大神社」で、式内・大神社の論社。
第53代淳和天皇の御代、風水害や疫病で人々が苦しむさまに淳和天皇は御心を痛められ、「下野国(今の栃木県)の霊峰三輪山に天下太平を祈る社を造営せよ」との詔を賜り、日の神であり太陽のように命を育む「天照皇大御神」、月のように人々に安らぎを与える「豊受姫大神」、星のように人生の道案内をしてくださる「瓊瓊杵命」、この「日・月・星」の御神徳をあらわす三座の神様をお祀りするために太平山神社が造営されました。すると忽ち世の中は治まり、大いによろこばれた淳和天皇は、勅額を下賜されたのです。
そして、もともと此地でお祀りされていた神様は奥宮(剣之宮・武治之宮)に鎮座されました。
太平山神社の歴史は『諸神座記』を始め多くの古文書によれば、垂仁天皇の御宇に大物主神(おおものぬしのかみ)・天目一大神(あめのまひとつのおおかみ)が三輪山(現在の太平山)に鎮座されたときに始まると云われております。今からおよそ二千年も前のことですが、太平山神社の周辺からは古い時代の祭祀遺跡・祭祀遺物が出土しており、太平山は非常に古くから信仰されていた山であったことが伺い知れます。
『太平山開山記』によれば、「円仁(慈覚大師)は何年にもわたり太平山の入山を拒否されていたが、淳和天皇の御代の天長4年(827)、天皇の勅額を奉じることでついに入山を果たした」とあります。これが今日伝えられている「天長四年慈覚大師開山説」で、旧暦1月8日に執り行われる神蛇祭(しんださい)の祝詞にも伝えられています。こうして太平山神社は「神仏」を祭る山としての第一歩を迎えたのです。この後、太平山は神鎮まる御山として一大宗教の霊地となり、摂末社および寺院が八十余遷座・建立されました。
さらに明徳3年(1392)には後小松天皇から「太平山神社」の額を下賜されましたが、天正13年(1585)の戦火で、これら淳和・後小松両天皇の額は焼失してしまいました。
戦国時代に北条氏と対立する上杉謙信が太平山から関東を臨んだという言い伝えが残っているほど、関東平野を一望できる地に太平山神社は鎮座しております。天正年間に兵火によって社殿が焼失してしまう不幸がありましたが、近世の初期には早くも復興し、徳川幕府から朱印地50石を認められました。さらに寛政年中(1789~1801)には「御願御抱場」となるなど、民衆のみならず朝廷や幕府からも「天下太平を祈る社」として信仰されました。『雲上明鑑』『雲上明覧』にも「下野 太平山宮司」「野州 大平山神主」または「野州 大平山別當」と記載されるなど、武家伝奏が朝廷へ執奏する社でもありました。
太平山神社は様々な歴史を経て参りましたが、古い昔から、多くの人々の心を支え続けてきたのです。http://www.ohirasanjinja.rpr.jp/history/より。
拝殿前 左に筑波山が見えています。
社務所
社務所と拝殿の渡り廊下 本殿の屋根がちらり。
拝殿前の撫で石
この石を撫でることにより災厄を祓い、霊験を得るという信仰があります。
拝殿
沢山の境内社があります(下記hp参照)。
その一つの足尾神社
さて、境内社付近から奥宮へ続く山道を発見。登ってみます。
太平山神社・奥宮
ここから更に登ります。太平山の山頂を目指します。
途中の祠
太平山神社境内脇より、奥宮へ至る道を更に400m程登って行くと、やがて山頂に着き、富士浅間神社が鎮座しています。
この地域の主峰には必ずといってよいほど、富士浅間神社が祭られています。
主祭神は木花咲耶姫命であり安産の神でもあります。園部町には長さ1mほどの布に書いた旗が1.6mほどの竹竿につけ、家ごとに回す風習が伝わっていました。迎えた家では、1夜お祭りして次の家へ回し、袋の中におさい銭や祈願文、祈願成就のお礼を入れて結びつけたりしました。
境内脇のお茶屋さん♪
山田家でまいたけ天ぷらのお蕎麦(1000円)を頂きました。美味しかったですよ。
地元のおばさま4人がピーチクパーチク。働いていないとおかしくなっちゃうのよ~と元気元気(笑) 地元の憩いの場になっているようでしたよ^^
栃木市内の展望 ここが一番見晴らしが良かったですね。
階段参道脇のロウバイ。良い香りが漂っていました。
想像以上に良い神社でした。平日だったので、ほぼ地元の方ばかりでしたね。聞こえてくる栃木弁にホッコリしました。境内は関東平野のへりに辺り、見晴らしも良く、古くから祭祀、信仰されてきたと容易に推測されます。よい空気・空間でした^^
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