2017.9.8~11 親友と二人でオヤジ軍団九州旅行(佐賀~長崎~大分~福岡)へ行きました。いよいよ九州旅行も最終日です。ホテルをチェックアウト後、櫛田神社へ参拝に行きました。少し天気は下り坂です。
櫛田神社は、古くより博多の氏神・総鎮守として信仰を集めています。
7月の博多祇園山笠、10月の博多おくんちなどの祭事があります。
5月の博多松囃子(博多どんたく)は、櫛田神社の祭事ではないようですが、松囃子一行は櫛田神社から出発するしきたりだそうです。旧社格は県社。地元の博多の人々からは「お櫛田さん」と。
いや~賑やですね~^^ 明るい気を感じる佇まいですねー。
境内の入り口付近の「櫛田の銀杏」。樹齢約1000年。博多祝い唄に「さても見事な櫛田のぎなん」と唄われています。県の天然記念物。すごい存在感ですよ。
入口の鳥居のすぐ内側に楼門があります。
櫛田神社の正面桜門には「威稜」の大額があるますが、「威稜」(いつ)とは「天子、天皇の御威光」の意味だそうです。
櫛田神社楼門天井にある干支恵方盤。
毎年大晦日に,新しく迎える年のえとに矢印を回転させて,その年の恵方・方位を示すそうです。
境内
手水舎
境内参道から「飾り山」がちらりと・・・後程^^
昭徳灯篭 大きいです。
中神門
拝殿
立派な拝殿ですねー。
9時過ぎですが結構の参拝者が居られましたよ。
霊泉鶴の井戸
本殿地下から湧き出る霊泉で不老長寿のいのち水として信仰されています。
拝殿内
拝殿内の天井絵。天狗のお面がたくさん・・・山岳信仰と繋がりがあるのでしょうか?
櫛田神社(くしだじんじゃ)
は、福岡市博多区にある神社である。
祭神は大幡大神(櫛田大神)、天照皇大神、素盞嗚大神(祇園大神)の三神で、正殿に大幡主神、左殿に天照大神、右殿に素盞嗚神が祀られている。当社以外にも日本全国にいくつかの櫛田神社があるが、それらが櫛名田姫を主祭神とする神社であるのに対し、当社では櫛名田姫は祀られていない。ただし、元々は櫛名田姫を祀る神社であったとする説もある。
大幡大神(大幡主命)は伊勢国松坂の櫛田神社から勧請した神とされている。別名を大若子命といい、天御中主神の19世の子孫で、北陸地方で怪物を退治したとされる。なお、大幡神を主祭神とする神社は佐渡市にあり、櫛名田姫を主祭神とする神社5社のうち3社も北陸地方にある。
社伝では、天平宝字元年(757年)、松阪にあった櫛田神社を勧請したのに始まるとされ、松坂の櫛田神社の祭神の大幡主神が天照大神に仕える一族の神であったことから、天照大神も一緒に勧請されたと伝えられる。天慶4年(941年)、小野好古が藤原純友の乱を鎮めるために京都の八坂神社に祈願し、平定した後に当社に素盞嗚神を勧請したと伝えられるが、平安時代末期、平清盛が所領の肥前国 神埼(佐賀県神埼市)の櫛田宮を、日宋貿易の拠点とした博多に勧請したという説が最有力であり、櫛田神社の宮司らが編纂し昭和40年(1965年)に文部省(当時)に提出した『博多山笠記録』や昭和54年(1979年)に福岡市が発行した『福岡の歴史』でも佐賀県神埼市にある櫛田宮の分社とされている。戦国時代に荒廃した[3]が、天正15年(1587年)、豊臣秀吉によって博多が復興されるときに現在の社殿が造営された。明治元年(1868年)の神仏分離令より前の江戸時代までは東長寺に属する神護寺が櫛田神社を管理していた。明治24年(1891年)に県社に列した。
櫛田神社 (福岡市) 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』最終更新 2019年12月2日 (月) 06:01
おみくじは、日本語、英語、韓国語、中国語、台湾語^^
境内の博多祇園山笠の飾り山。いや~、でっかいです。奇稲田姫(櫛名田姫)も観られますね。
博多祇園山笠(はかたぎおんやまかさ)は、
博多の総鎮守として知られる櫛田神社(福岡市博多区)の奉納神事[1]。毎年7月1日から15日にかけて開催される700年以上の伝統のある祭である。正式名は櫛田神社祇園例大祭。各地に伝わる素戔嗚尊に対して奉納される祇園祭の一つで、博多どんたくとともに博多を代表する祭りである。福岡市博多区の博多部(那珂川と御笠川(石堂川)間の区域)で7月に行われる。国の重要無形民俗文化財に指定されている[1]。山笠の掛け声「おっしょい」は1996年(平成8年)に日本の音風景100選に選ばれた。また、2016年(平成28年)12月1日、博多祇園山笠を含めた日本全国33件の祭が、「山・鉾・屋台行事」としてユネスコ無形文化遺産に登録された[2]。
山笠期間中は行事参加者の間ではキュウリを食べることが御法度となる。一番根強い説としては「キュウリの切り口が櫛田神社の祇園宮の神紋と似ているから」というものがある。・・・・・・
博多祇園山笠は女人禁制の祭りであり、旧来の流に於いては子供山笠も含めて舁き手は男性のみである。・・・・・・
博多祇園山笠の起源については諸説あるが、鎌倉時代の1241年(仁治2年)に博多で疫病が流行した際、承天寺の開祖であり当時の住職である聖一国師(円爾)が町民に担がれた木製の施餓鬼棚に乗り水を撒きながら町を清めてまわり疫病退散を祈祷したことを発祥とするのが通説である[6]。・・・・・・
かつては京都の祇園祭のように町ごとに飾山笠の華美を競いながら練り歩いていたが江戸時代の1687年(貞享4年)に[6]土居流が東長寺で休憩中、石堂流(現在の恵比須流)に追い越される「事件」が起こる。このとき2つの流が抜きつ抜かれつのマッチレースを繰り広げ町人に受けたことから、担いで駆け回るスピードを競い合う「追山」が始まった。以来戦後の一時期を除き祭のクライマックスとしてこの「追山」が執り行われ、福岡市内のみならず近隣各地から多くの観衆を集めている。・・・・・・
・・・・・・経緯は不明であるが山笠は多くの幟を立て人形を飾った背の高いものに変化した。
・・・・・・現在の「飾り山」として見られるような岩山笠は三苫惣吉が1752年(宝暦2年)に始めた様式といわれる。・・・・・・この頃の山笠は高さが10メートル以上あり、町のどこからでも望むことができた。
1898年(明治31年)、福岡県知事が山笠行事の中止を提議した。理由に山笠が電線を切断する事故が相次いだことが含まれていたため、それまでの高い岩山笠は飾っておくだけの「飾り山」とし、運行には3メートル程の「舁き山」を用いることとなった[6]。・・・・・・市内に路面電車が開通して軌道上空に架線が張られると、架線より高い山笠の運行が不可能になり、「飾り山」と「舁き山」の分化は決定的なものとなった。その後、1979年(昭和54年)に市内の路面電車が全廃されると、舁き山の高さは徐々に緩和されるようになり、現在は4.5メートルまでとなっている。
「走る飾り山」は電線や信号機・標識などに接触しないよう伸縮式になっている。またこの飾り山は煙が出るようになっているが、これは1991年(平成3年)にゴジラの人形から煙を吐き出させるようにした事が始まりである。
飾り山や山笠の人形の衣装の生地は長年、京都の西陣織を使用していたが、2002年(平成14年)より地元の博多織を人形の衣装の生地に使うようになった[1]。
博多祇園山笠 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』最終更新 2020年1月13日 (月) 08:03
境内の夫婦恵比寿神社
夫婦銀杏(夫婦円満・縁結びの願掛けが多いそうです)と南神門
みこし舎
本殿の真裏の末社なのですが、まるで稲荷神社のように鳥居が連なっていました。このようなタイプの末社?は初めて見ましたね。
手前から、石堂宮、今熊宮、諏訪神社、金毘羅宮、松尾宮、天満宮・・・鳥居の最奥には、不思議な形状の御神体の石。う~ん・・・御神体の石を調べてみましたが、ちょっとよく解りませんでした。
稲荷神社
本殿裏と末社と絵馬
境内図を見ながら整理していますが、何処なのか解らなくなっちゃいました^^;
ともあれ、地元の引力のとても強い氏神様と感じましたね。歴史のあるお祭りもそうですが、その思いの蓄積というか、時代を超越して地元と人々と共にある・・・そんな神様を感じたのでした。
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★「神社参拝リスト」
参拝した神社の投稿まとめです。