2017.9.8~11 親友とヤローと二人でオヤジ軍団九州旅行(佐賀~長崎~大分~福岡)へ行きました。台風に当たるかなあと思いつつも、勝負!!半年前から計画を立ててました。
スカイマーク今得で往復21580円。レンタカー早割30で4日間15900円。一泊は従兄弟宅泊。別府温泉宿泊素泊6630円。博多ビジネスホテル朝付3980円。とトコトン格安設定で行きましたよ(笑
9.8 05:00出発。浜松町経由モノレールで 06:30頃、羽田空港第一旅客ターミナルへ。
スカイマーク・機械でチャックイン。予約支払いのクレジットカードを入れると、航空券が発行される。
機内持ち込みできる大きさの小さなスーツケースでしたが、ガラガラするのが面倒くさいので預ける。
羽田 発 07:40 → 福岡 着 09:35 10:00福岡空港よりレンタカー借り入れ(オリックスレンタカー・キューブ)
今年はかなりの天候不順ですが、前日まであまり良くありませんでしたが、この日から三日間くらいはお天気。最終日はちょっと降られるかもという感じで、実にラッキーな日程となりました。
福岡空港に着くと、いや~陽射しが強烈。 東京都ちと違う。 二週間くらい季節が戻った感じでした。
もう暑くなくていいんですけど・・・でも雨よりいいですねー。従兄弟にNEXCO西日本 九州支社の「九州よかよかドライブパス2017)」ETC高速6500円九州乗り放題を教えてもらってスマホで直ぐに申し込み^^ 一路、吉野ヶ里遺跡へ。
吉野ヶ里遺跡公園~ 金曜日とあって、ほとんどお客さん居ません。土日は賑わうのかなあ???
吉野ヶ里遺跡
佐賀県神埼郡吉野ヶ里町&神埼市の吉野ヶ里丘陵にある遺跡。国の特別史跡指定。およそ50ヘクタール、弥生時代の大規模な環濠集落(環壕集落)跡で知られる。1986年(昭和61年)での発掘調査により発見された。現在は国営吉野ヶ里歴史公園で、一部を国が管理する公園です。
鳥居の入り口から環濠集落(周囲に堀をめぐらせた集落(ムラ)のこと。水稲農耕とともに大陸からもたらされた新しい集落の境界施設と考えられている)へ入ります。いや~、天気で暑いっす。
壕の内外には木柵、土塁、逆茂木(さかもぎ)といった敵の侵入を防ぐ柵が施されていた。
展示室へ~
展示室で特に気になったのがこの写真。
そして、吉野ヶ里遺跡のこの「鳥の乗る入り口」。
直感的に、これはもしかして「鳥居」の原型???と思い、展示室のお姉さんに尋ねてみたら、そういう説もあると。というわけで調べてみました。
「鳥居」について
・鳥居を立てる風習は、神社の建物がつくられるようになる前から存在した。
・古来日本では、屋根のない門という意味で「於上不葺御門(うえふかずのみかど)」ともいった。
・中国の「華表」の訳を鳥居とするので、過去には漢文で「華表」と記したこともあったという。
・鳥居の起源については諸説あり、考古学的起源についてはっきりしたことは分かっていない。
・単に木と木を縄で結んだものが鳥居の起こりであると考えられる。
・いずれにせよ、8世紀頃に現在の形が確立している。
そのほか主要な説として、
・天照大御神を天岩戸から誘い出すために鳴かせた「常世の長鳴鳥」(鶏)に因み、神前に鶏の止まり木を置いたことが起源であるとする説
・日本の冠木門に起源を求める説
・インド仏教にみられるトーラナや中国の華表や鳥竿、牌楼、朝鮮半島の紅箭門、イスラエルの移動型神殿、雲南省とビルマとの国境地帯に住むアカ族の「村の門(ロコーン)」など海外に起源を求める説などがある。
・アカ族の「パトォー・ピー(精霊の門)」という村の入口の門では、上に木彫りらしき鳥が置かれることや、鳥を模した造形物を飾る風習もあることが実地を調査した研究者から報告されていることから、日本の神社でよく見られる「鳥居」の原型は、アカ族らが長江流域から南下、避難してくる前、長江流域に住んでいた時代(百越人であった時代)の「鳥居」ではないのか、という説。アカ族の村の門には鳥の木形が置かれるが、同様の鳥の木形は日本での稲作文化の始まりとされる弥生時代の遺蹟である池上・曽根遺跡や纒向遺跡でも見つかっており、また他にも多くの遺蹟でも同様である。
・また、ユダヤ教と関連があるとする説もある(日ユ同祖論)。鳥居 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』最終更新 2019年10月22日 (火) 06:52
どうやら、いろいろある説の一つのようですね。
鳥竿は、アジアの稲作地特有の風習で、優良な稲作地を探すときの目安として朝、鳥が多く集まるところに設置されたのが始まりとも云われているようですし、「鳥」の霊的な解釈においては次のようなものがあります。
・太古の昔から、霊魂が鳥の形をとるということは、インド・ヨーロッパ諸国では広く一般に信じられていた。ラテン語のavesは「鳥類」を意味すると同時に、「祖先の霊」、あるいは死者の魂、または天使、をも意味した。
・ローマの皇帝たちは自分の火葬用の積みまきの上にワシを放って、自分の霊魂を天界に運んでもらい、それで神格を得た。
・エジプトの王たちもヘル〔ホルス〕 Horusの聖鳥タカを葬儀のときに空高く放って、それに乗せ、あるいはその中に入れて、自分の霊を天界に運んだ。
・キリスト教の聖人たちも、列聖式のときに白いハトを放って、それで霊魂を天界に運んだ。
・人間が幻視の状態にあるとき、あるいは、忘我の状態にあるとき、鳥になった錯覚に陥るのは、死と再生の第一歩に踏み入った象徴として広く見られる現象である。南太平洋、インドネシア、中央アジア、シベリアなどの呪術師たちや予言者たちは、自分は鳥に変身できると言った。
・ヨーガの行者たちは、夢幻の境に入って空を飛ぶことができるのは、ヨーガを修行していちばん最初に体得する呪カである、と言った。「自分が鳥になること、あるいは鳥に乗って運ばれるということは、生きながらにして空へ、また空のかなたへ
恍惚として飛んで行けることである」。ケルトの妖精たちは鳥に変身することができた。そのために彼らは天使のように翼ある身として描かれたし、また魔女たちはそのために「魔女の集会」へ飛んで行けたのであった。・マヤ人やアステカの聖職者たちはすばらしい羽の衣を着ていたが、霊魂を容易に天界へ運ぶ、という機能を持ったものであったと思われる。
・鳥は地界と天界の間を自由に行き来するために、いたるところで、霊魂を天界へ運ぶものと考えられたと同時に、天使の使者であり、予知を与えてくれるものであり、神秘の秘密を持っているものと思われた。
上記のサイトを引用させて頂きました、
こうして掘り下げてみると、「鳥」は豊穣を願う稲作時代の指針的な役割から、地上界の人々を天界へと導く役割まで果たしていて、それはもう「神の遣い」であったと云えるでしょう。
「その神の遣いの鳥」を象徴として村へ入る門を作れば、おのずと村が神に守られると考えるのも当たり前でしょう。祈りや願いが強くなれば、祭祀場所にその門(鳥居)を起き、結界を張り、神の降りる場所とすれば、そこは「神社」となります。鳥~鳥居~神社が結びつきました^^
半地下で入口低いです。
大人(たいじん)の家、大人の妻の家
魏志倭人伝によると弥生時代から身分があったようで、 上から「大人(たいじん)」、一般的な身分である「下戸(げこ)」最も下位の階層である「生口(せいこう)」と分類されていたようです。
弥生時代の社会、夫婦の形に関しては、割愛しますよ~。
大人の妻の家の内部
大人の家の内部
物見やぐら
登りましたよ。良い風が吹き抜けていました。気持ち良かった~。
壕の内外の木柵、土塁がスゴイですね。実に大きな集落です。
吉野ヶ里遺跡は、佐賀県神埼郡の旧神埼町・旧三田川町・旧東脊振村の3つの町村にまたがった我が国最大の遺跡で、弥生時代における「クニ」の中心的な集落の全貌を知ることができます。弥生時代は約700年間も続いた長い時代です。
吉野ヶ里遺跡では、この長い弥生時代の全ての時期の遺構・遺物が発見されていますが、吉野ヶ里歴史公園では「弥生時代後期後半(紀元3世紀頃)」を復元整備対象時期として復元整備を行っています。
上着を着て籠を背負って弥生人になり切りましたよ(笑
手前のイノシシ親子が可愛いですね~。
飾り物や・・・
なんと繭玉も見られますね。
なんと彼岸花が咲いていました。関東より一週間くらい早いかなあ。太陽はギラギラでしたけどねー。
吉野ヶ里の「クニ」の倉庫群があり市が開かれていたところ
奥のこんもりしている緑の丘が北墳丘墓
怪獣のタマゴです。
ウソです(笑)
お墓です。こんなお棺に入れて埋葬していたんですねー。何だかタイムカプセルみたいです。
甕棺(かめかん)墓列
吉野ヶ里遺跡より発掘された約3000基の甕棺墓のうち、 約1000基が古代の森より発掘されました。 古代の森では、全長300メートル、約500基の墓列が 復元されています。
北墳丘墓
吉野ヶ里集落の歴代の王が埋葬されている特別なお墓と考えられています。外観が復元され、墳丘墓の内部では14基の本物の甕棺や出土品レプリカの展示、北墳丘墓の解説展示を行っています。
墳丘墓とは土あるいは石を積み重ねて丘のような形(墳丘)とした墓です。吉野ヶ里遺跡の環壕集落北部に位置する北墳丘墓は弥生時代中期前半~中頃(2200年~2100年前)にかけてつくられ、南北約40m、東西約27mの長方形に近い形態で、その高さは4.5m以上あったと考えられています。
発掘調査中に遺構面まで掘り下げられましたが、その後に遺構の保存のため一旦埋め戻されました。遺構面の保護処理方策、管理方法等の実験等、検討が重ねられ、発掘当時の状況を公開する施設として設備が進められ、H20年2月に再び公開されました。
いや~、ここは凄かったです。吉野ヶ里歴史公園にも公園のhpにもサラリと紹介していますが、もっとアピールしても良いのではないでしょうか?
甕棺の埋葬手順・・・日本では佐賀や福岡を中心とする北部九州で多く発見されている特徴的な方法です。
遺跡を見ながら、この北墳丘墓に来ると・・・ホントに弥生時代にタイムトリップしたかのようでしたよ。
北内郭 ~まつりごとの場所~祭殿
当時のまつりごとに大きく関わる人がいたとされる巨大な祭殿など9棟の建物が復元されています。残念ながら外観は工事中でしたが、内部は見学できたので入ってきましたよ。
主祭殿2階
吉野ヶ里のクニ全体の重要な祀りが開かれており、吉野ヶ里の王やリーダーたち、さらには周辺のムラの長が集まっています。
吉野ヶ里集落だけでなく、吉野ヶ里を中心とするクニ全体にとって最も重要な場所であったと考えられています。田植えや稲刈りの日取りを決めたり、季節ごとのお祭りの日を決めたり、また大きな「市」を開く日取りを決めるなど、吉野ヶ里を中心とするクニ全体の重要な物事についての儀礼的な話し合いと祖先への祀りが行われていた場所と考えられています。
公園hpより。
主祭殿3階
祖先の霊のお告げを聞く祈りを行っています。
この結果は従者によって2階で会議を行っている王やリーダーたちに伝えられます。また当時は、重要な物事が話し合いでは決まらない時には最高司祭者(祖先・神の声を聞くことができる特殊な能力を持った人)に祖先の声を聞いてもらい、その声に従って決定していったと考えられています。公園hpより。
というわけで、とても弥生時代の生活が学べて有意義でした。利用料は420円。公園内のレストランで遅い昼食を食べて、長崎・波佐見町へ向かいました。
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★「旅行記」
今まで行った旅行記のまとめです。
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