8月、むかし近くまで行って参拝できなかった台方麻賀多神社へ参ってきました。
麻賀多神社(まかたじんじゃ)は、式内社です。印旛郡市に18社ある「麻賀多18社」の総本社。1944年(昭和19年)6月10日に日月神示が降ろされた場所としても知られています。
位置関係。麻賀多神社の大鳥居、台方麻賀多神社、奥宮に当たる船形麻賀多神社へ。
麻賀多神社の大鳥居
延暦2年(783)勅使・大伴家持公が印旛沼湖畔に建立。61年ごとに建て替えるのを定例とし1200余年、印旛沼湖面にあるそうです。が、平成7年に道路計画の為に分断され大鳥居を移動。新たに石鳥居として現在地に建立したようです。
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」
大鳥居の印旛沼方向はこんな感じで田んぼになっています。広々しています。
鳥居河岸跡 甚兵衛渡し 印旛沼の対岸への交通手段として渡しがありました。
では、台方麻賀多神社を参拝に・・・・
台方麻賀多神社 境内入り口
義民??
後ほど説明します。
拝殿
立派な拝殿です。
本殿
主祭神: 和久産巣日神(ワクムスビ)
ワクムスビはイザナミがカグツチを産み、火傷をした後に生まれた。娘はトヨウケヒメ。
「麻賀多神社」という神社は、印旛郡市に台方をはじめ、成田市に1社、佐倉市に11社、酒々井町2社、富里市2社、八千代市1社の計18社を数える。全国的に見ても珍しい名前の神社で、印旛沼の東側から南にかけてにのみ存在する神社である。
式内社。社伝によれば、景行天皇42年6月晦日、東征中の日本建尊が当地を訪れ、杉の幹に鏡を懸け「この鏡をインバノクニタマオキツカガミと崇めて祀れば、五穀豊穣になる」と言い、伊勢の大神を遥拝したのが当社の起源であるという。応神天皇20年、神八井耳命の8世の子孫である印旛国造・伊都許利命が現在の成田市船形に社殿を造営し、その鏡を神体として稚日霊命を祀った。また、伊都許利命は杉の木の下から7つの玉を掘り出し、それを神体として和久産巣日神を併せ祀った。この2神は「真賀多真(勾玉)の大神」と呼ばれた。推古天皇16年、伊都許利命の8世の子孫の広鋤手黒彦命が、神命により現在の成田市台方に和久産巣日神を遷座し、それまでの社殿を奥宮とした。
延喜式神名帳に記載の際、「真賀多真」が三種の神器の1つと同名であるとして、1字取って「真賀多神社」に改称した。後に、一帯が麻の産地であることから麻賀多神社に社名を改めた。
麻賀多神社 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』最終更新 2021年5月13日 (木) 14:00
末社:祓戸社(祭神:瀬織津姫、気吹戸主、速秋津姫、速佐須良姫)
神楽殿
天神神社
天日津久神社
扶乩実験の約2ヶ月後の1944年(昭和19年)6月10日に天明は同郷の先輩で知人でもあった高田集蔵[7] の誘いで千葉県印旛郡公津村台方(現・成田市台方)を訪れるが、そこに実験の時に現れた天之日月神を祀る延喜式内社で麻賀多神社の末社である「天之日津久神社」があった。 神典研究家で神名には明るかった天明でも天之日月神がいかなる神なのか、また、どこに鎮座され祀られている神なのかが扶乩実験後もしばらくは分らなかったと後に述懐している[8]。
天明によると天之日津久神社を参拝し厚く御礼を申し上げ、社務所で一息ついている時に予期しない自動書記現象が起こったという。画家でもあった天明は矢立や画仙紙を常に持ち歩く習慣がありこの時も例外ではなかったが、突然、額のあたりに「ピリッ」とした強い衝動と右腕に非常な激痛を感じ(天明の言葉によれば、右腕に焼火箸を突っ込まれたような激痛だったという)、矢立と画仙紙を取り出し、筆を画仙紙にのせたところ自分の意思に反して猛烈な勢いで筆が走り意味不明の殴り書きをした。
これ以前に天明が経験していた自動書記や霊的現象では天明自身が中止しようと思えば中止出来たが、今回の場合は中止しようとすればさらに右腕の激痛が耐えられぬほどになり全く自由にならなかったという。 これが後に日月神示と呼ばれる神示、神典でこの日が発現の重要な日となった。なお、書記を終えた時には先程までの右腕の激痛は嘘のように消えていたという。その後も神示が降りてくる時には右腕が痛くなり、書記が終われば治まるということの繰り返しが続いたと言われている。
なお、この時に書記されたものが日月神示の第一巻である「上つ巻」(うえつ巻)の第一帖及び第二帖であった。
日月神示 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』最終更新 2021年5月20日 (木) 08:57
幸霊神社、青麻神社、猿田彦神社
境内の大杉へ。
古峯神社、三峯神社 巨大な杉が見えます。
すごい空気・空間でした。圧倒されましたね。
境内左奥にある、東日本一の大杉(御神木)は、樹齢1300有余年、昭和10年、千葉県の指定記念樹第一号に指定されました。古来より御神木には心霊が宿っていると言い伝えられ、延命長寿のご利益を授かることでも有名です。現在はパワースポットとしても人気の場所となっております。
この角度から見上げるとスゴイ迫力です。
生命力に溢れていますね^^
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続いて、かつて麻賀多神社のあった奥宮・船形麻賀多神社へ。
境内入り口
森の中へ吸い込まれてゆきます。
安永4年(1775年)奉寄進された石盃盤
拝殿
本殿 こちらのご神木の杉は台方の大杉より細いですね。
境内社 隣接する神社の裏はキレイな幼稚園でしたよ。
麻賀多神社の森
家庭祝祭事
本古墳は『先代旧事本紀』の中の「国造本紀」に見える”印波国造伊都許利命”の墳墓と伝えられています。墳丘の大きさは、東西辺約35m、南北辺約36m、高さ約5mの方形墳です。遺体埋納施設は、後期古墳の主体部に多く見られる凝灰質系軟質砂岩の切石積みによる横穴式石室(南側裾部)と、絹雲母片岩の板石を組み合わせた箱式石棺の二施設があります。(成田市教育委員会・麻賀多神社掲示より)
なんと境内には、社殿を造営した印波国造・伊都許利命のお墓がありました。
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さて、帰路につきます。どこかにお蕎麦屋さんがないかなあとナビで探すと・・・
「甚兵衛そば」というそば屋さんがありました。セイロが船の形をしているのは、船頭であった「甚兵衛」にちなんだもの。
詳しくは下記をご参考に↓
https://narinavi.com/gourmet/38/
ところで、蕎麦屋さんの周りを見渡すと、どうも、このそば屋さんは門前そば屋のようです。「宗吾霊堂」とあります。
東勝寺・宗吾霊堂
残暑のきつい暑い日だったので、どうしようか悩みましたが、車を停め直して参拝しました。
真言宗豊山派の寺で開創年代等については不詳。寺伝によれば桓武天皇の勅命により、坂上田村麻呂が創建したという。
門を入ると直ぐにお墓があります。
義民・佐倉惣五郎の霊が祀られています。そのため、宗吾霊堂(そうごれいどう)と呼ばれています。
義民(ぎみん)とは、民衆のため一身を捧げた人で、飢饉などで人々が困窮しているときに一揆の首謀者などとなって私財や生命を賭して活躍した百姓のこと。佐倉惣五郎は、領主堀田氏の重税に苦しむ農民のために将軍への直訴をおこない、処刑されたという義民伝説で知られています。惣五郎の義民伝説は江戸時代後期に形成され、実録本や講釈・浪花節、歌舞伎上演などで広く知られるようになったそうです。
着飾って写真を撮っているカップルが居ましたよ。両家のお母さんも^^
疫病退散も兼ねてお参り致しました。
宗吾霊堂の駐車場脇に又兵衛・宗吾店があったので、つくだ煮を買って帰りました。「ざっこ」は、色んな小魚や小エビの入ったつくだ煮でした。美味しかったですよ。盛沢山の半日トリップでした^^
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